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巨眼の人・山岡鉄舟(1月6日)
巨眼の人・山岡鉄舟(1月6日)

江戸城無血開城の実質上の功労者は、勝海舟の陰に隠れてはいるが(*)、山岡鉄舟(天保7年/1836年-明治21年/1888年)であるという。勝海舟の命を受け西郷隆盛との交渉に向かおうとした鉄舟は金銭的には困窮しており、刀も持ってなかった。後の初代静岡県知事を務めた関口隆吉から大小を借りて駿府へと旅立ったという。道中官軍の警備の中を「朝敵徳川慶喜の家臣・山岡鉄太郎、まかり通る!」と大声張り上げながら進んでいったという。何という剛気...。禅、書そして剣の道を極めた鉄舟ならではの豪胆さであろう。(*)親日的日本人が作った”日本人の歴史教科書”(自由社刊)にでさえ、勝海舟の名はあっても、山岡鉄舟の名は出て来ない。駿府城至近の場所(現在の静岡市伝馬町)で西郷隆盛と山岡鉄舟は会談した。慶応四年三月、桜の咲く頃だった。当時は園芸種・染井吉野はまだ世になかったので、桜が城下町にあったかどうかは定かでない。維新後、静岡県大参事になった鉄舟は県内に数多くの足跡を残している。清水次郎長を感化し、伊豆長八に影響を与え、金原明善とも交流があった。寺社や商家に墨蹟も遺している。旧清水市にある鉄舟寺は戦国時代は今の久能山にあり、久能寺と称していたが、武田家が城を築いた後は今の場所に移された。幕末に到っては廃寺同然に荒れ果てていたのを、鉄舟が全国から募金を集め見事再興したのである。ゆえに、久能寺改め鉄舟寺となった。ちなみに、東海大学は最初この鉄舟寺で授業をしていたとのこと、同大学二期卒業生の義父(航空物理学専攻)から聞いたことがある。



  • Posted by 2011年01月06日 (木) | コメントコメント(0

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