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森町三倉の山桜(3月30日)

今日の午後思い立って森町三倉に向かった。かつての塩の道といわれる山道を登って行った。雨模様の日だった。大久保地区の八幡神社の脇にその山桜は満開だった。染井吉野と違い花弁と葉っぱが共に寄り添っている。桜は姿だ、枝ぶりだ。まず八幡神社に参拝。北島宮司が墨書したと思われる説明の立看板には、467年前に再造とあり、かつて徳川家康公も参拝された由。この桜も樹齢数百年を数える銘木である。八幡神社の隣地はかつて三倉小学校があり、その一角に二宮金次郎像が今もなお立っている。校舎は何もない。帰り道には雨足が強まった。振り返って見る遠景の桜も風情があっていいものだ。

彦根城(3月28日)

井伊家の城・彦根城を見学。一昨年「直虎展」主催のため縁の地を訪ね、その世界にどっぷりと浸かった身としては感慨深いものがあった。何しろ井伊家断絶の危機を乗り越え、まさしくV字回復し、徳川譜代筆頭(35万石)にまで上り詰めたのだ。直虎の許嫁・直親の忘れ形見・虎松が長じて直政となったが、とにかく勇猛果敢。数々の武勲を重ね、見事に家康公の期待に応えた。関ヶ原の合戦の後、西軍の大将・石田三成の居城・佐和山城に入ったが、気に入らなかった。そこを改修するのではなく、別の場所に新たに作ったという。天下普請であった。

ささやかな「日本博物館」(3月4日)

昭和20年8月の(日ソ中立条約を無視した)ソ連侵攻により”古郷”国後を追われた日本人が残していった雛人形や急須など。かつてこの民家では雛祭りが祝われたのであるが、その持ち主の心は今も引き裂かれたままなのである。

安曇野に向かう途中、島崎藤村の「夜明け前」の舞台となった馬籠を訪れた。

二宮尊親(2月18日)

興復社二宮農場の創設者二宮尊親は、二宮尊徳の孫として、安政2年11月16日、現在の栃木県今市市に誕生。明治29年興復社再建のために北海道開拓を決意し、社員等4名とともに渡道。明治30年牛首別興復社の設立認可を受け、3月3日第一期移住民15戸を引率し、4月8日牛首別原野に到着。この年郷里から家族を呼び寄せ、茂岩に居住することとなった。以来明治31年第二期入植者23戸、明治32年第三期入植者14戸、明治33年51戸、明治34年14戸と続いて入植し、尊親自ら陣頭に立って寝食を忘れて指導に当たった。明治40年入植以来10年にして開拓の方向も定まり、各農家も経営の安定を見るに至ったので、福島県中村に転住。その後は年に数回実情の把握および指導のため現地入りしたのである。この間、十勝にあっては農会長、学事会員、その他の公職に推され、依田勉三、関寛斎らが尊親を訪れたこともあった。郷里に帰った後も、尊徳遺稿一万冊の整理、「二宮尊徳遺稿」の編集著作に専心する傍ら、農業関係、金融関係、教育関係の公職及び実務に当たり、現西宮市報徳学園の二代目校長などを務め、大正11年11月東京において68歳で病死した。

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