5,6世紀に仏教や儒教が伝来し、途絶えることなく日本社会に受容されたが、キリスト教は結構険しい道を歩んできた。16世紀にポルトガル船によってキリスト教が伝わり、信長公もその布教活動に寛容であった。しかし、秀吉公によって発せられたキリスト教排斥の方針は家康公にも引き継がれ、第三代将軍の時代にはそれが徹底された。尋常小學国史には次のように記されている。~きりすと教の信者の中には、神社や寺をこはしなどして、わが國の美風をそこなふものがあって、その弊害が少なくなかったので、秀吉はキリスト教をさしとめて、教會堂をこはし、宣教師を國外に追出した。~ 神社仏閣を破壊するだけでなく、ポルトガル人は日本人を奴隷として売買したりもした。「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連」が世界文化遺産に登録されたが、宣教師によるかつての狼藉のことなど一切不問のままだった。信長公は宣教師を擁護したのはビジネスのためだったのだろうが、今でいうところのグローバリストであったがゆえに、(日本文化防衛という大義で)明智光秀によって討たれたのだろう。
黒船来航(嘉永6年、1853)が大きな圧力となって日本の鎖国体制は溶解し、尊皇攘夷・開国佐幕の二つの対立軸がアウフヘーベンし、尊皇開国となり明治を迎えた。明治政府による欧化政策と共にキリスト教文化が流入し、先の大戦敗北によるGHQ占領政策によって日本の美風が破壊され続けているのである。
- POSTED at 2020年06月04日 (木)