旧暦ではあるが、今日は「大塩平八郎の乱」決起の日である。天保8年(西紀1837)2月19日、新暦では3月25日。老中・水野忠邦による天保の改革(西紀1830~1843)が文字通り道半ばの頃である。大塩平八郎は元・大阪東奉行所与力(奉行の配下30人の一人)であった。家督を譲り隠居生活をしている頃に大飢饉が発生した。凶作・飢饉により餓死者が続出。最初は大量の蔵書を売り窮乏の民を救う資金としていた平八郎であったが、それも限界となった。大阪東奉行だった跡部良弼(水野忠邦の実弟!)は大坂の窮状に目を向けず対策を講じなかった。平八郎の窮民救済の提言を拒否したのである。役所には汚職や不正がはびこり、利を求めた豪商は米を買い占めた。腐敗した役人や目先の金儲けしか考えない豪商に天誅を加えんと大塩平八郎は決起したのである。義挙であった。
天保の飢饉のことは「報徳記」(富田高慶著、西紀1857刊)に次の記述がある。~干時(ときに)天保四年(西紀1833)初夏時期不順にして霖雨止まず。先生或る時茄子を食するに其の味常に異なり恰も季秋の茄子の如し。箸を投じて嘆じて曰く、今時初夏に當れり、然して此者既に季秋の味をなすこと豈唯ならんや。是を以て考ふるに陽發の氣薄くして陰氣既に盛なり。何を以てか米穀豊熟することを得ん。
是に於いて三邑の民に令して曰く、今年五穀熟作を得ず豫め凶荒の備へを為すべし。一戸毎に畠一反歩其の貢税を免すべし。速やかに稗を蒔き飢渇を免るるの種とせよ。忽せにすべからずと。~
- POSTED at 2021年02月19日 (金)