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ブログ

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今朝早くに目が覚め(3月11日午前4時)階段室にある本棚から「神道の本」を抜き取った。何故かそこに目が吸い寄せられたのである。今朝の「枕頭の書」となった。以下の下りは、まさに目から鱗であった。
~神前に立って柏手を打つときに、両手を合わせ、右手を少し手前に引くが、これは左は火足(ひたり)であり、陽(ひ)であり、霊(ひ)である。右は水極(みき)であり、陰(つき)であり、体(身み)である。両手を合わせるのは、陰陽の結合、調和であり、右手を少し手前に引くのは陰が一歩下がる。つまり霊主体従を意味するものなのだ。手を打ち鳴らすのは天地開闢の音霊であり、天の磐戸開きである。祈るとき、そこに天地が開け,磐戸が開き、光明があふれでることを意味するのである。~
日頃神社に参拝するときに何も意識せずに行っている作法であるが、なるほどと得心がいった次第である。そして、巻末のこの本の発行日をみると、何と1992年3月10日となっている。ちょうど28年前の今日なのだ。シンクロニシティーにびっくり!
この年の4月19日にパリを引き上げ帰国の途に就いた。そして8月に横尾忠則の「飛瀧曼荼羅展」が開催された那智勝浦を訪れ、那智の瀧をご神体とする飛瀧神社の前に立った。そのとき、自然(かみ)を感得し、神道の世界に導かれたのである。




今日は旧暦では1月1日である。明治5年までの日本人は今日あたりの季節感で正月を祝っていた。「新春」という表現がフィットするのだ。日の出と日の入りに手を合わせ拝んでいた日本人の素朴な自然観(こころ)は「不定時法」に合わせて一刻を設定する和時計(形)の考案に繋がったが、「文明開化」「西洋近代化」というメスが入れられ「定時法」に基く西洋時計(かたち)に取って換わられた。もう既に150年ほども前のことにて意識の表層には出て来ないが、その後の日本人の美意識や感性(心)に少しずつ少しづつ西洋化の浸潤が進行してきたのであろう。暦の西洋化も図られ、太陰・太陽暦から太陽暦への転換が号令された。明治5年の12月3日が新暦の1月1日となった。明治維新のあまり意識されない別の一面である。
私が机を構える事務所(浜松市東区有玉南町)の目と鼻の先に旧庄屋屋敷『高林家』があり、ここのかつての当主・高林伊兵衛は和時計の収集家であった。その100点を超えるコレクションは現在東京国立博物館に寄託されている。西洋近代化の投れに竿を差したのだろうか?
一陽来復(1月30日)

昨年の12月21日は冬至の日に当たり、ちょうど偶然にもその日は古希を迎えた私の誕生日であった。が、本題はこの季節に行われる新嘗祭のことである。以下、山蔭基央著「天皇と日本の繁栄」(平成元年、マネジメント社刊)より
~その昔は、霜月(旧暦11月)の中の卯の日に行われた新嘗祭で、新暦(太陽暦)では12月半の頃に行われた祭である。つまりこれは「農民の祭」として、新しい生命を迎える冬至の祭(一陽来復の祭)であったとみれば、それはキリスト教のクリスマスの祭にも比適される。つまり《太陽の光》が衰え、その威勢が元に復する季節に《新嘗祭》が行われたとは、まことに《生命新生の祭》にふさわしい。
《新嘗祭》はかく農耕社会の神事であるに、日本は《工業社会》となって久しい。しかも《ハイテク工業社会》として、日本は《超先進国》である。しかるに、日本皇室が太陽暦に訂正したとはいえ、《初冬の十一月》の夜に、昨年(西紀1988年)も行われたのである。(注)1988年は天皇御不例の為、掌典長代行、1989年も服喪のため掌典長代行となった。~
太陽は命の源であり、農業は国家経営の命の源である。ここで想起されるのは二宮尊徳の《農業振興成ってのちに商工の道拓かれる》という箴言である。




二宮尊徳翁の死(12月4日)

農政家・二宮尊徳翁がその70年の生涯を閉じたのは、安政二年(西紀1856)十月二十日、新暦では今年の場合12月4日である。2年前の嘉永6年4月に病に罹りながらも幕府より命じられた日光神領の興復の仕事に邁進した。その年の7月に長女・文子が他界。
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