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一年の春、天下に疫病流行し、病者の路に斃るる者數を知らなかった。天皇(嵯峨天皇)は痛く叡慮をなやまし給ひ、これを救済せんとし給ひ、御宸筆をもって金泥で紺紙に般若心経を書寫し給ひ、表紙には檀林皇后の御筆を以て、薬師三尊の御影を寫せられた。そしてかしこくもこの経をば、空海に供養せしめ給うた。
この経の霊験いちじるしく、重病者も忽ちに平癒し、さしもしょう獗を極めた疫病も地を払って息み、天下の人々は安堵の胸を下ろすこととなった。
この御宸筆の般若心経は、後に嵯峨大覚寺に蔵せられ、その霊験は永く後世のためしとなった。すなはちのちのちの天皇が、御宸筆の般若心経をもって、疫病を払ひ給ふこと、一つに天皇のこの勝業にならひ給ふこととなったのである。
*嵯峨天皇(在位大同四年/西暦八○九年~弘仁十四年/西暦八二三年)
(鷲尾順敬著 「皇室と仏教」 昭和十二年・大東出版社刊より)
今日は「文化の日」という祝日である。戦前は明治天皇のお誕生日をお祝いする「明治節」であった。キリスト教の布教を容認とし国体を壊そうとした織田信長が明智光秀の義挙によって斃れ、豊臣秀吉→徳川家康→徳川家光のリレーによって文化防衛策が図られた。それから100数十年のうちにイギリスで産業革命が振興し、販路を外に求めた勢力とそれに加担した日本人(坂本龍馬ほか)によって日本は開国。近代日本建設のための精神的支柱となったのが明治天皇であった。開国しつつ西洋列強の植民地にならなかったのは、ひとえに明治の先人の「闘う気概」の賜だった。日清戦争、日露戦争を勝ち抜き、徳川幕府が結んだ不平等条約を是正することが可能となった。武力の充実なくして国益を守るための交渉は出来ない。そういった明治の精神を呼び戻すためにも、現行の「文化の日」を「明治の日」に改める運動に賛同するものである。
一般財団法人 あたらしい道(大阪府羽曳野市) の会報「あたらしい道」(隔月刊)の9月号が一昨日届いた。随分と前から知人から借りて読んでいたのであるが、今年の5月から誌面が刷新されたのを機会に購読を申し込んだ。編集内容が素晴らしいだけでなく、誌面のデザインも美しい。今月6日の幣ブログに「東京裁判」のことを書いたが、この「新しい道」誌にも「東京裁判」のことがとても的確に書かれているので、補足という意味で以下引用させていただきます。~東京裁判に法的根拠がないということは、裁かれたのは犯罪人ではない。「裁かれた」のではなく報復リンチにあったようなもので、戦争犯罪裁判で命を落とした人は、言ってみれば「戦死者」です。昭和27年に独立を回復した時から、日本政府は直ちにこの人たちの名誉回復にとりかかり、昭和28年の国会では全会一致(共産党も含む)で「戦犯として処刑された人々は、法務死であって戦死者とみなす」と決議しました。~ 「自虐史観が国を滅ぼす」という中井健編集長の論文の一節である。
かつては4月29日が「みどりの日」であったが、この日が「昭和の日」と改まったのに伴い5月4日が「みどりの日」となった。廃止されるのではなく、生き残った。4月29日が昭和天皇崩御後「天皇誕生日」改め「みどりの日」となったのは、昭和天皇が全国植樹祭の行事に永年臨席されたことによるのであろう。侍従次長であった掛川ご出身の河合弥八氏の「戦争で荒れ果てた山河を緑で一杯に」という提案でスタートし、昭和25年を第一回とした。私の郷里・松山では昭和41年4月、第17回が開催された。、当時は合併前で愛媛県温泉郡久谷村といった。全国に先駆けて「文教村宣言」をした村である。杉苗3本を森の形に植えられた天皇陛下は「久谷村を緑に染めにし時おしも楽しみにして杉植えにけり」という御製をお詠みになられた。今年は第71回植樹祭が今上陛下最初の同祭お出ましとして予定されていたが、武漢コロナウイルスの感染拡大防止のため急遽取り止めとなった。残念極まりない事である。