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一陽来復(1月30日)

昨年の12月21日は冬至の日に当たり、ちょうど偶然にもその日は古希を迎えた私の誕生日であった。が、本題はこの季節に行われる新嘗祭のことである。以下、山蔭基央著「天皇と日本の繁栄」(平成元年、マネジメント社刊)より
~その昔は、霜月(旧暦11月)の中の卯の日に行われた新嘗祭で、新暦(太陽暦)では12月半の頃に行われた祭である。つまりこれは「農民の祭」として、新しい生命を迎える冬至の祭(一陽来復の祭)であったとみれば、それはキリスト教のクリスマスの祭にも比適される。つまり《太陽の光》が衰え、その威勢が元に復する季節に《新嘗祭》が行われたとは、まことに《生命新生の祭》にふさわしい。
《新嘗祭》はかく農耕社会の神事であるに、日本は《工業社会》となって久しい。しかも《ハイテク工業社会》として、日本は《超先進国》である。しかるに、日本皇室が太陽暦に訂正したとはいえ、《初冬の十一月》の夜に、昨年(西紀1988年)も行われたのである。(注)1988年は天皇御不例の為、掌典長代行、1989年も服喪のため掌典長代行となった。~
太陽は命の源であり、農業は国家経営の命の源である。ここで想起されるのは二宮尊徳の《農業振興成ってのちに商工の道拓かれる》という箴言である。




二宮尊徳翁の死(12月4日)

農政家・二宮尊徳翁がその70年の生涯を閉じたのは、安政二年(西紀1856)十月二十日、新暦では今年の場合12月4日である。2年前の嘉永6年4月に病に罹りながらも幕府より命じられた日光神領の興復の仕事に邁進した。その年の7月に長女・文子が他界。

一年(ひととせ)の春、天下に疫病流行し、病者の(みち)(たほ)るる者(かず)を知らなかった。天皇(嵯峨天皇)は痛く叡慮をなやまし(たま)ひ、これを救済せんとし給ひ、御宸(ごしん)(ぴつ)をもって金泥(きんでい)紺紙(こんし)に般若心経を書寫(しょしゃ)し給ひ、表紙には檀林皇后の御筆(ぎょひつ)を以て、薬師三尊の御影(みえい)(うつ)せられた。そしてかしこくもこの経をば、空海に供養せしめ(たま)うた。 

この経の霊験いちじるしく、重病者も(たちま)ちに平癒し、さしもしょう(けつ)を極めた疫病も地を払って()み、天下の人々は安堵の胸を()ろすこととなった。

 この御宸(ごしん)(ぴつ)の般若心経は、後に嵯峨大覚寺に(ぞう)せられ、その霊験は永く後世のためしとなった。すなはちのちのちの天皇が、御宸(ごしん)(ぴつ)の般若心経をもって、疫病を払ひ給ふこと、一つに天皇のこの勝業(しょうげふ)にならひ給ふこととなったのである。    

*嵯峨天皇(在位大同四年/西暦八○九年~弘仁十四年/西暦八二三年) 

(鷲尾順敬著 「皇室と仏教」 昭和十二年・大東出版社刊より)

 

明治節(11月3日)

多賀神社前近くの民家に掲げられた国旗

今日は「文化の日」という祝日である。戦前は明治天皇のお誕生日をお祝いする「明治節」であった。キリスト教の布教を容認とし国体を壊そうとした織田信長が明智光秀の義挙によって斃れ、豊臣秀吉→徳川家康→徳川家光のリレーによって文化防衛策が図られた。それから100数十年のうちにイギリスで産業革命が振興し、販路を外に求めた勢力とそれに加担した日本人(坂本龍馬ほか)によって日本は開国。近代日本建設のための精神的支柱となったのが明治天皇であった。開国しつつ西洋列強の植民地にならなかったのは、ひとえに明治の先人の「闘う気概」の賜だった。日清戦争、日露戦争を勝ち抜き、徳川幕府が結んだ不平等条約を是正することが可能となった。武力の充実なくして国益を守るための交渉は出来ない。そういった明治の精神を呼び戻すためにも、現行の「文化の日」を「明治の日」に改める運動に賛同するものである。
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