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コミュニティーの集い(9月20日)

衆議院議員・城内実氏をお招きし、地元有志による座談会を開催した。午前中降っていた雨も昼過ぎには上がり、午後4時からMH氏宅の庭先で予定通りの青空集会となった。コロナ対策を始めとする国政報告を約30分伺い、質疑応答の時間もお取りいただいた。以下、直近の城内実ブログより~新型コロナウイルスで疲弊した日本経済、国民の生活をいかに立て直していくかが喫緊の課題です。東京一極集中を是正し、地方活性化を進めることは経済再生に直結するものです。「国民のために働く菅内閣」のもと、地方活性化、国民を守るコロナ対策に尽力してまいります。~ コロナ感染防止策として、①マスクの着用、会場受付での②アルコール消毒 ③体温測定、ディスタンスのある座席配置などをきっちりと実施した。
短いエッセイであるが、とても濃密な文章である。田中元総理の訃報の翌日、つまり平成5年(1993)12月17日に書かれている。かつて大蔵省に奉職し、国土庁事務次官を最後の役職として昭和60年(1985)退官した石川周氏の自家本「今の自分を超えて行く」(平成5年刊)に収められている。ごく少数の縁故者にしか配られていないので、印刷部数は恐らく数百冊でしかなかったろう。縁あって私のところにも送って頂いたのである。昭和63年(1988)に発刊された「花小路のこころ覚え」以来、毎年刊行された。A5版400ページの厚い本である。国土庁官房長の折、「四全総」策定に関して一度だけ田中元総理ご本人にお目にかかったことがあるという。以下に引用する石川氏の文章には元総理への哀悼の誠が感じられる。~田中さんは優れた政治家であったと思う。自分の個性を発揮しながら日本という社会を引っ張っていった。その政治理念は地方の繁栄であった。地方を住みやすい、魅力あるものにする、地方の時代を築く、その政治理念を信じ、実行した政治家であった。東京の一極集中を続けたら、地方は二度と立ち直れないほどに疲弊することになる。そして、やがては東京も動脈硬化に陥ってしまう。地方の繁栄こそがこの国を救う必要欠くべからざる課題である。そのことを信じ、理解し、そのための政策を強力に実行に移した政治家であった。田中さんは我が国の顔であったと思う。高度成長期を代表する一人、良くも悪くもこの時代の日本を象徴する人であったと思う。その人の死は一つの時代の終わりを表現している。本当の意味での戦後の終わりである。~
陛下のお稲刈り(令和2年9月16日)

昨日、天皇陛下が皇居内の水田で稲刈りをされた。5月にご自身が田植えをされたもち米とうるち米計20株を手際よく刈り取られたということである。昨年の苗は上皇陛下がまかれたものであったが、今年は種まきから始められたのである。陛下は昨日宮内庁を通じ次のようなご感想とおことばを文書で公表された。~稲作への思いを深めることが出来ました。豪雨等による被害や新型コロナウイルス感染症の感染拡大により農業に従事されている皆さんのご苦労もいかばかりかと思います。各地で収穫が無事に行われることを願っております。~
「稲作への思い」 は、掛川で開催された紀元2600年祭における一木喜徳郎・大日本報徳社社長の訓示にも伺われるものと思われる。~原来我が報徳の教は天祖大神が豊蘆原を瑞穂国と開かせ給うた大道を則としたものでありまして、神武以来列聖が國を治め給うた皇道の精神を体したものであります。(昭和15年4月)~
あれから50年(9月13日)

大坂万博(1970)のシンボル 岡本太郎作の「太陽の塔」

50年前は1970年、昭和45年。その前年に大学に入学。大学紛争の嵐が吹き荒れていて、入学した大阪外国語大学(現・大阪大学外国語学部)も例外ではなかった。入学式には、松山から大阪見物を兼ねて母も出席していた。始まると同時に白ヘルを被った連中が壇上に雪崩込み、待ちに待っていた晴れの入学式はぶち壊しと相成った。狂気の沙汰である。何か外来の思想にかぶれた連中だったのだろう。四国ののどかな田舎から出て来た母もさぞかし驚いたことだろう。世が世であればあいつらは獄門だ。連中も今や70越えだろうが思い出すと腹が立つ。上本町のキャンパスは連中によって封鎖され、授業も変則的となり、学外のお寺や公民館を借りて授業が行われたが単位をちゃんと取れる環境ではなかった。2年に進級するのをあきらめて自主留年を決めた。ドイツ語学科25名のうち自分も入れて20名。親には申し訳なかった。アルバイトも沢山した。不安もあったが、それ以上に若さゆえの向こう見ずなバイタリティがそれを凌駕していた。70年の夏には大阪万博があり、メインゲート近くの神戸屋パンのレストランでアルバイトをした。岡本太郎の「太陽の塔」が目の前にあった。映画「ロミオとジュリエット」が上映されていたのを思い出す。万博が終わってから友人に誘われて訳も分からず京都まで行って「安保粉砕!」デモに参加したりした。今から考えると愚かな行為だった。ベルリンフィルが来日、大阪フェステイバルホールでカラヤン指揮によるベートーヴェンのシンフォニーを聴いた。この時初めてオーケストラなるものを聴いたのだった。そしてカラヤン指揮の「君が代」を清聴した。歌謡曲では、ちあきなおみの「四つのお願い」、藤圭子の「圭子の夢は夜開く」、渚ゆう子の「京都の恋」などが巷の人気を集めていた。そして11月25日、下宿のドアの下から差し込まれた夕刊で三島由紀夫の自決を知った。その時の下宿は谷町九丁目の地下鉄近くの永源寺というお寺の境内に建てられた木造の1DKだった。ドアを開けると目の前が墓地、見上げるとラブホテルのネオンサインが眩いという何ともシュールな環境だった。この年の12月に20歳の誕生日を迎え、美空ひばりの司会による大晦日の紅白歌合戦で1970年は幕を閉じた。

蝶の姿より(9月1日)

猫の額ほどの小さい庭であるが、桜・月桂樹・柿・栗・夾竹桃(白)・サツキ・利休梅などが所狭しと植わっている。背丈も8メートル位に成長して、太陽が照り付ける朝などは心地よい「緑陰」となるので有難い。鳥や虫が飛んできたりする。また、燐家との境界に植えた樫の枝に鳩が巣を作ったりもする。右の写真は、羽を休める蝶である。左右対称の姿が美しく安定感を感じさせてくれる。しかし、よく見ると
一部が欠けていて非対称(対称性の破れ)となってしまっている。ここで思い起こすのは、2008年にノーベル物理学賞を受賞した益川敏英博士の「CP対称性の破れ」理論である。これに通じる記述が実は既に「古事記」の中にあって、それは黄泉の国から逃げ帰ろうとするイザナギノミコトと呪いの言葉を掛けたイザナミノミコトの言葉の応酬である。「醜い私の顔を見てしまった呪いとしてお前の国の民を一日に千人殺してやろうぞ」というイザナミに対してイザナギは「では、私の国の民を一日1500人子を産むようにしよう」と応えたのである。
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