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東京大学名誉教授 渡辺正氏と国際政治学者の藤井厳喜氏の対談である。約10分。
https://www.youtube.com/watch?v=X3OP0x0aZfs

国連という存在にはいかがわしさを感じる。
1989年②1月(令和3年7月15日)

葱華輦

昭和64年は7日間で終わった。年が明けて7日に昭和天皇が崩御されたからである。日本中が深い悲しみに包まれた。昭和という時代が幕を閉じたのである。平成元年2月24日、新宿御苑にて大喪の礼が執り行われた。
以下、「大喪の礼に参加して」(石川周著『平成へのパラダイムシフト』所収)より~ 
皇室の儀式である大喪の儀、斂葬の儀、葬場殿の儀、そして政府の儀式である大喪の礼が、10時31分から13時31分にかけて実施
された。参加者およそ11,000人、163箇国の代表をふくめ、盛大にそして粛々と儀式は進行した。式の始まる前、10時過ぎに礼砲が
轟始めた。21発であったように思う。腹の底に響く、鮮烈な緊張感をもたらすような、迫力充分の響きであった。ざわついていた
式場内が居ずまいをただし、静まり返った。礼砲が終わった時、お車(じゅ車)が式場に到着された。しばらくして、徒歩の列が粛々と、まさに粛々と始まり、私どもの前を過ぎていった。旗、楯、桙、大真榊、柩、笙、ひちりきの列の後に、神官、侍従長、藤森宮内庁長官など、そして葱華輦(そうかれん)つまり昭和天皇の柩の神輿が続き、その後に明仁天皇陛下、美智子皇后陛下、そのあとに皇太子はじめ皇族の皆様方が続く。...なかでも圧巻は葱華輦であった。一列十二人程の四列の若人が、たったったったっと小刻みに駆け足のような小気味よいそのくせ厳しさを迫るリズムで神輿を肩に小砂利を踏んでいく。小砂利を踏む爽やかな、そして神秘、荘厳なその響きは、人をして思わず頭を下げしめるものであった。天皇の御霊がいま目の前を過ぎて行ったのである。~

 
 
 

憲法のこと(令和3年7月10日)

七十年以上放置された憲法の欠陥とは? ・コロナ禍や大規模災害などの緊急事態に対処する規定がない。・中国・北朝鮮の侵略行為に無力な9条。・96条の手続きが非現実的で改正できない。 戦後、国家の尊厳や国益、そして国民の生命と財産を守ろうともしない国家意識の希薄な政治家や外交官、さらに財界人などを多数生み出してきたのは、私たちが七十年以上もの間、日本国憲法のこうした欠陥を放置してきたからではないでしょうか。
~百地章著「日本国憲法 八つの欠陥」(扶桑社新書)より。
日本が再び強い国になると困る国々の意向に沿って活動する輩がのさばっている。政権を保持していなくとも、戦後敷かれたGHQによる日本弱体化路線という虎の威を借りて教育界を牛耳り、平和教育の名の下に「戦う気概」を国民から奪っている。マスコミもそういう勢力に同調しているこの現況はゆゆしきこと限りない!


静岡という地名の由来(令和3年6月3日)

本日静岡県知事選挙が告示された。投開票は6月20日で、この日は何と「静岡」という地名が町触れされた日である。江戸から明治へと切り替わったことの節目の日である。「新しい県政」が始まった日であった。そのことを記す石碑を見たのは11年前のこと。
2010年、静岡県主催の「輝く静岡の先人」展の運営を委託され、県下4会場を廻ったことがある。①沼津市(静銀ギャラリー)→②静岡市(市民ギャラリー)→浜松市(なゆた浜北ギャラリー)→④森町(小國神社) 静岡市民ギャラリーを擁する旧静岡市役所の正面玄関脇に静岡の地名由来を記した石碑があった。以下、静岡市のホームページより~
 『静岡の由来

明治二年(1869)廃藩置県を前にして駿府または府中といわれていた地名の改称が藩庁で協議された 重臣の間では賤機山にちなみ賤ヶ丘といったんは決まったが藩学校頭取の向山(むこうやま)黄村(こうそん)先生は時世を思い土地柄を考えて静ヶ丘即ち「静岡」がよいと提案され衆議たちまち一決同年六月二十日「駿州府中静岡と唱え替えせしめられ候」と町触れが達せられた 以来百有余年富士を仰ぐふるさと静岡の名は内外に親しまれ県都として今日の発展を見るに至った
ここに市制施行九十周年を迎え黄村先生の遺徳を敬仰しゆかりの地藩庁跡に市名の由来をしるす
 昭和五十四年四月一日  静岡市                                           』

                        
という碑が静岡市役所本館前に設置されています。

この由来碑は昭和54年に設置されたものですが、昭和60年以降の静岡県史編纂事業による調査において、静岡の名称についての新資料(国立公文書館所蔵 公文録)が確認されました。その資料は、『府中藩が明治政府に3つの名称案「静岡」、「静(しず)」、「静城(しずき)」を上申し、明治政府が「静岡」を採用』したことがわかる資料でした。この候補の考案に、向山黄村が深く関わったと考えられています。平成28年5月 文化財課
関岡英之氏の死(令和3年5月25日)

栗原幸彦作「花菖蒲」 紙本彩色 90x180cm

ノンフィクション作家の関岡英之氏(1961-2019)の死を知ったのは、昨年1月の日本文化チャンネル桜の番組でだった。亡くなったのがその前年の5月だったというから、8か月経ってからの発表であった。死因は吐血性心不全、行年僅か57才。
関岡氏にはその生前浜松で何回かお目にかかったことがある。落選中の城内実氏の応援で、街頭演説や城内実後援会主催の講演会の司会などの活動をされていた。郵政民営化法案採決時に青票を投じた城内実氏に全幅の信頼を置き、望みを託していらした。
昨日車を運転中に関岡氏のお顔が頭をよぎった。何故だろう?
亡くなる半年前に(2018年12月8日)書かれた著書「帝国陸軍 知られざる地政学戦略」の新書版後書きを以下のように結ばれている。~『なんじ自身のために泣け』『大川周明の大アジア主義』と本書を以て、私のささやかなアジア三部作は完結した。なかでも本書は、私にとって最も思い入れのある渾身の一冊だ。この世に生を受け、この三作を世に遺し、いま再び本書を新たな形で残せるという僥倖に恵まれ、もはや思い残すことはなにも無い。ありがとうございました。2018年12月8日払暁 國運分岐の報に接しつつ 関岡英之 ~


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