万葉集を読解した賀茂真淵は326年前の今日浜松に生まれた。その生地の上の方に縣居神社の祭神として祀られている。
戦前の教科書には「松阪の一夜」と題して、「古事記伝」を書いた本居宣長と面談したことが紹介されている。
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袋井氏の村松に肖像画の納品があり1時間弱田園地帯をドライブ。K氏としばし文化と歴史談義をしたが、その中に地元出身で芸術院会員の川村驥山の名前が出て来た。浜松への帰路、袋井駅に子規の句碑があるのを思い出し、寄ってみた。駅のロータリーの一角にそれはあった。立派な槙の木を背景としてその句碑はあった。
23才の正岡子規は伊予松山への帰郷のおり初めて汽車に乗った。東海道線が開通したばかりの明治22年(1889)12月25日のことだった。袋井駅に停車した車窓から眺めた様子を俳句に謳った。
冬枯れの中に家居や村一つ
説明板を見ると揮毫したのは先ほどの川村驥山である。また、発車時刻は午後六時七分であったとも記されている。ちなみに、この子規の乗った汽車は中泉を経て浜松へ。浜松を六時四十五分に出て名古屋には十時十分に着いている。この日は名古屋止まりだったので、子規は名古屋に一晩泊り、翌朝の列車で神戸まで行き、そこから船で松山まで帰ったのであろう。
23才の正岡子規は伊予松山への帰郷のおり初めて汽車に乗った。東海道線が開通したばかりの明治22年(1889)12月25日のことだった。袋井駅に停車した車窓から眺めた様子を俳句に謳った。
冬枯れの中に家居や村一つ
説明板を見ると揮毫したのは先ほどの川村驥山である。また、発車時刻は午後六時七分であったとも記されている。ちなみに、この子規の乗った汽車は中泉を経て浜松へ。浜松を六時四十五分に出て名古屋には十時十分に着いている。この日は名古屋止まりだったので、子規は名古屋に一晩泊り、翌朝の列車で神戸まで行き、そこから船で松山まで帰ったのであろう。
明治27年に始まった日清戦争は、翌28年の二月には清側の降伏という形で勝敗が決した。子規が従軍記者として清に向かったのは、同年の4月だった。戦闘はもう終わっているのに何しに行ったのであろう。司馬遼太郎は「坂の上の雲」の中で『子規の従軍は、結局はこどものあそびのようなものにおわった。』と書いている。一ケ月余の後にはもう帰国の途に就いている。しかも結核というやっかいな病に冒されていた。大連港から乗った佐渡国丸の甲板から血を吐いた。9日後に船は神戸港に着いた。この時詠んだ俳句を日記帳の余白にしるしたらしい。
須磨の灯か明石のともし時鳥
司馬氏によれば、時鳥ということばを入れたのは、血を吐く自分の姿をそれとなくえがいたのだという。下船した後すぐに神戸病院に運ばれ、そこには2か月いた。そして、喀血もおさまったので須磨の保養院で転地療養を一ヵ月。岡山、広島経由で松山に戻った。この時の移動が船だか鉄道だか、司馬氏はその辺り無頓着である。明治22年に東海道線(東京⇔大阪)は開通してるので、恐らく大阪以西も鉄道は開通していただろう。
松山に戻ったといっても、正岡家の屋敷は人手に渡っていたため、母親の実家に身を寄せた。大学時代の友人・夏目漱石が英語教師として松山中学(現・松山東高校、私の母校)に赴任していた。その漱石の下宿を愚陀仏庵と名付けてそこに転がり込んで句会を開いたりした。明治28年10月19日、子規は松山を発って東京に向かった。大阪からは鉄道の旅であったろう。浜松にも立ち寄っている。そして詠んだ。
馬通る三方ヶ原や時鳥
浜松市中区の天林寺山門近くにその句碑が建っている。ふるさと松山に想いを馳せるよすがとなっている。
須磨の灯か明石のともし時鳥
司馬氏によれば、時鳥ということばを入れたのは、血を吐く自分の姿をそれとなくえがいたのだという。下船した後すぐに神戸病院に運ばれ、そこには2か月いた。そして、喀血もおさまったので須磨の保養院で転地療養を一ヵ月。岡山、広島経由で松山に戻った。この時の移動が船だか鉄道だか、司馬氏はその辺り無頓着である。明治22年に東海道線(東京⇔大阪)は開通してるので、恐らく大阪以西も鉄道は開通していただろう。
松山に戻ったといっても、正岡家の屋敷は人手に渡っていたため、母親の実家に身を寄せた。大学時代の友人・夏目漱石が英語教師として松山中学(現・松山東高校、私の母校)に赴任していた。その漱石の下宿を愚陀仏庵と名付けてそこに転がり込んで句会を開いたりした。明治28年10月19日、子規は松山を発って東京に向かった。大阪からは鉄道の旅であったろう。浜松にも立ち寄っている。そして詠んだ。
馬通る三方ヶ原や時鳥
浜松市中区の天林寺山門近くにその句碑が建っている。ふるさと松山に想いを馳せるよすがとなっている。
この小説の主人公を軍人の秋山兄弟と俳人の正岡子規に絞った司馬遼太郎の着想は素晴らしい。伊予松山のことが描かれていて、また母校松山東高校(子規や秋山真之が通った松山中学の後進)の大先輩にもあたるので関心度倍増である。しかもこの作品の作者は大学(大阪外国語大学,現・大阪大学外国語学部)の先輩でもあるしで、無邪気ながらも誇らしい。大学3年の時(1972年)の下宿先(大阪府八尾市教興寺)のすぐ近くに司馬遼太郎のご実家(福田家)があったりした。郷里松山の事が懐かしくなったこともあり18年振りにこの長編を読み返している次第である。
冒頭の章「春や昔」の文体は夏目漱石の「坊ちゃん」のそれを彷彿とさせる。読み返していると他にもいろんな発見がある。
司馬氏がこの小説を構想したのは、恐らく明治100年(西暦1967年)を意識したからであろう。と思いきや、1968年から1972年まで1296回産経新聞に連載されたとのことである。当時は何も分からず朝日新聞を購読していたのでそのことは知らなかった。
~まことに小さな国が,開化期をむかえようとしている。その列島のなかの一つの島が四国であり、四国は、讃岐、阿波、土佐、伊予にわかれている。伊予の首邑は松山。~ 見事な滑り出しである。
冒頭の章「春や昔」の文体は夏目漱石の「坊ちゃん」のそれを彷彿とさせる。読み返していると他にもいろんな発見がある。
司馬氏がこの小説を構想したのは、恐らく明治100年(西暦1967年)を意識したからであろう。と思いきや、1968年から1972年まで1296回産経新聞に連載されたとのことである。当時は何も分からず朝日新聞を購読していたのでそのことは知らなかった。
~まことに小さな国が,開化期をむかえようとしている。その列島のなかの一つの島が四国であり、四国は、讃岐、阿波、土佐、伊予にわかれている。伊予の首邑は松山。~ 見事な滑り出しである。
もう4年8か月も前に出た本であるが、遅ればせながら昨日、今日で読了した。田中政権の金権体質批判の急先鋒だった石原氏が一人称で故田中角栄元首相の政治と人生を語るという手法で書かれており、稀なる天才政治家で国士・田中角栄氏へのオマージュでありレクイエムである。石原氏は「長い後書き」の中で、アメリカのメジャーに頼らない資源外交を展開したゆえにアメリカの逆鱗に触れ、ロッキード事件という策により葬られたのだ、と書いている。また、「私たちは田中角栄という未曽有の天才をアメリカという私たちの年来の支配者の策謀で失ってしまったのだった。歴史への回顧に、もしもという言葉は禁句だとしても、無慈悲に奪われてしまった田中角栄という天才の人生は、この国にとって実は掛け替えのないものだったということを改めて知ることは、決して意味のないことではありはしまい。」と重ねている。しみじみとした読後感の残る名著である。100万部のベストセラーとなったようである。
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