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ブログ

日清戦争と子規(令和3年10月12日)

子規や漱石も乗った蒸気機関車と客車。20年前に「坊ちゃん列車」として運行が復活。

明治27年に始まった日清戦争は、翌28年の二月には清側の降伏という形で勝敗が決した。子規が従軍記者として清に向かったのは、同年の4月だった。戦闘はもう終わっているのに何しに行ったのであろう。司馬遼太郎は「坂の上の雲」の中で『子規の従軍は、結局はこどものあそびのようなものにおわった。』と書いている。一ケ月余の後にはもう帰国の途に就いている。しかも結核というやっかいな病に冒されていた。大連港から乗った佐渡国丸の甲板から血を吐いた。9日後に船は神戸港に着いた。この時詠んだ俳句を日記帳の余白にしるしたらしい。
須磨の灯か明石のともし時鳥
司馬氏によれば、時鳥ということばを入れたのは、血を吐く自分の姿をそれとなくえがいたのだという。下船した後すぐに神戸病院に運ばれ、そこには2か月いた。そして、喀血もおさまったので須磨の保養院で転地療養を一ヵ月。岡山、広島経由で松山に戻った。この時の移動が船だか鉄道だか、司馬氏はその辺り無頓着である。明治22年に東海道線(東京⇔大阪)は開通してるので、恐らく大阪以西も鉄道は開通していただろう。
松山に戻ったといっても、正岡家の屋敷は人手に渡っていたため、母親の実家に身を寄せた。大学時代の友人・夏目漱石が英語教師として松山中学(現・松山東高校、私の母校)に赴任していた。その漱石の下宿を愚陀仏庵と名付けてそこに転がり込んで句会を開いたりした。明治28年10月19日、子規は松山を発って東京に向かった。大阪からは鉄道の旅であったろう。浜松にも立ち寄っている。そして詠んだ。
馬通る三方ヶ原や時鳥
浜松市中区の天林寺山門近くにその句碑が建っている。ふるさと松山に想いを馳せるよすがとなっている。



「坂の上の雲」②(令和3年8月23日)

伊予松山城

この小説の主人公を軍人の秋山兄弟と俳人の正岡子規に絞った司馬遼太郎の着想は素晴らしい。伊予松山のことが描かれていて、また母校松山東高校(子規や秋山真之が通った松山中学の後進)の大先輩にもあたるので関心度倍増である。しかもこの作品の作者は大学(大阪外国語大学,現・大阪大学外国語学部)の先輩でもあるしで、無邪気ながらも誇らしい。大学3年の時(1972年)の下宿先(大阪府八尾市教興寺)のすぐ近くに司馬遼太郎のご実家(福田家)があったりした。郷里松山の事が懐かしくなったこともあり18年振りにこの長編を読み返している次第である。
冒頭の章「春や昔」の文体は夏目漱石の「坊ちゃん」のそれを彷彿とさせる。読み返していると他にもいろんな発見がある。
司馬氏がこの小説を構想したのは、恐らく明治100年(西暦1967年)を意識したからであろう。と思いきや、1968年から1972年まで1296回産経新聞に連載されたとのことである。当時は何も分からず朝日新聞を購読していたのでそのことは知らなかった。
~まことに小さな国が,開化期をむかえようとしている。その列島のなかの一つの島が四国であり、四国は、讃岐、阿波、土佐、伊予にわかれている。伊予の首邑は松山。~ 見事な滑り出しである。
石原慎太郎著「天才」(9月16日)

もう4年8か月も前に出た本であるが、遅ればせながら昨日、今日で読了した。田中政権の金権体質批判の急先鋒だった石原氏が一人称で故田中角栄元首相の政治と人生を語るという手法で書かれており、稀なる天才政治家で国士・田中角栄氏へのオマージュでありレクイエムである。石原氏は「長い後書き」の中で、アメリカのメジャーに頼らない資源外交を展開したゆえにアメリカの逆鱗に触れ、ロッキード事件という策により葬られたのだ、と書いている。また、「私たちは田中角栄という未曽有の天才をアメリカという私たちの年来の支配者の策謀で失ってしまったのだった。歴史への回顧に、もしもという言葉は禁句だとしても、無慈悲に奪われてしまった田中角栄という天才の人生は、この国にとって実は掛け替えのないものだったということを改めて知ることは、決して意味のないことではありはしまい。」と重ねている。しみじみとした読後感の残る名著である。100万部のベストセラーとなったようである。


子規の句碑(3月31日)

浜松にある子規の句碑を2か所訪れる巡り合わせとなった。中区の天林寺と西区舞阪町にある弁天神社である。”馬通る 三方原や 時鳥”は天林寺の鐘楼のすぐ横にあり、子規自身の遺墨を基に彫ってある。句碑の背面を見ると、この句碑が建立されたのは昭和六年である。西暦で1931年。今年米寿を迎える勘定になる。句碑のすぐ後ろに染井吉野が太い幹でのさばっている。恐らく句碑を建立する際に苗を植えたのであろう。”訪ね来て 句碑も桜も 米寿かな” と、一句浮かんだ。いまひとつの句碑は、浜名湖畔の神社弁天神社の境内いある。子規の句はこうだ。”天の川 濵名の橋の 十文字”。明治28年(西暦1895年)、開通したばかりの東海道線の汽車に乗って
この辺りを通った時に詠んだ句らしい。ここ境内には、子規の句碑のすぐ隣が松島十湖の句碑で、”月や風や 夏しら波の 海と湖”とある。こちらは明治41年の作。
鷹野つぎ、ふるさとを偲ぶ(5月29日)

浜松市立高校の校門近くに設置の石碑

”大和は国のまほろば たたなずく青垣 やまごもれる大和し 美わし” これは有名な古代の英雄・日本武尊の國偲びの歌である。ご東征のあと、もうすぐ大和だという地点で病を得たときに詠んだ歌とされている。命を終えようとするとき、走馬灯のように生まれ育った故郷のさまざまなことが思いだされるのであろう。時代と身分は異なるものの、今回の肖像画展に展示されている浜松の女流作家・鷹野つぎ(明治23年/1890年-昭和18年/1943年)も同様の歌を詠んでいる。島崎藤村創刊の「処女地」同人であった。

ふるさとよはままつ
はままつは わがふるさと
したはしき母かも
呼ぶにも似たる
なつかしのはままつ
思ひは馳する
わがふるさと

鷹野つぎは、浜松高等女学校の卒業である。現在の浜松市立高校の庭にこの歌が刻まれている。(写真)
54歳の若さで亡くなったが、大東亜戦争の戦況を心配する歌が辞世だろうか?
”またとなき おほき戦さの 行く先も
明らめもせで われは逝くなり”
ふるさと浜松から遠く離れた東京の江古田(練馬区)で亡くなったという。