文化・芸術イベントやアート・絵画イベントの企画・運営ならアートフォースM&Kにお任せください。日本を 

サイト内検索 ホームページ制作・スマホサイト制作・CMS サイト管理画面

トップページ > ブログ > 文化

ブログ

1/15ページ 全部で75件中 1-5件を表示
神智学という思想運動(10月27日)

ブラヴァツキ―夫人(1831ー1891)

本棚からふと抜き取った冊子の表紙を見ると、高橋巌先生のご講演(1999年2月27日~28日、札幌)内容を収録した「人智学」第22号であった。『神智学』を読む、というタイトルが付いている。神智学協会は、近代オカルティズムの母と言われるブラヴァツキ―夫人(1831ー1891)によってニューヨークに創設された。以下、上記「人智学」誌より、~神智学協会の本部をボンベイに移すと同時に、自分もボンベイに移住し、仏教徒に改宗します。そこで、神智学の用語を基本的にはヒンズー教の概念にするのです。例えば空間と言わないで、アーカシャーと言ったり、霊我と言わないで、マナスと言ったり、そういう言葉でヨーロッパに衝撃を与えるのです。「東洋にこんなすごい思想があるじゃないか。キリスト教を東洋に輸出してどうするのだ」、と主張するのです。それによって、当時の帝国主義全盛期の植民地化政策に真っ向から反対する思想運動を展開したのが、神智学なんですね。シュタイナーは、その神智学協会のドイツ支部長に就任してから、ブラヴァツキ―とは反対に、ひたすらヨーロッパにとどまって、ヨーロッパ精神を内部から改革しようとします。その記念碑的な試みが、この『神智学』です~
万葉集全20巻朗唱の会③(10月13日)

巻18 4094番を朗唱する金子裕子さん、多賀城まつり実行委員会演出部長(宮城県)

万葉集を編纂したのは、大納言・大伴旅人の子・家持(西718-785)である。その生きた時代はすっぽりと奈良時代に収まる。仏教の勢いがいや増した時代である。疫病の勢いを削ごうとの思いから聖武天皇が大仏の建立を国家事業として推進した。東北から金の拠出の申し出があり、聖武天皇の詔書が出された。その内容は仏教色が強かったと言われる。その時、家持は越中高岡に国司として在任していて、その詔書を賀す次の歌を詠んだ。賀陸奥国出金詔書歌である。聖武天皇の詔書と違い、ひたすら古事記の世界、古の日本の国ぶりが切切と述べられている。~葦原の 瑞穂の国を 天下り 知らし召しける 皇祖の 神の命の 御代重ね 天の日嗣と 知らし来る ....大伴の遠つ神祖のその名をば 大久米主と 負ひ持ちて 仕えし官 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじと言立て... いや立て 思ひし増さる 大君の 御言の幸の聞けば貴み~(万葉集巻18:4094) 宮城県多賀城の方がこの歌を朗唱されているのは家持がこの地で終焉を迎えたといわれているからであろう。朗唱されている金子裕子さんは詩吟もたしなまれておられ、さすがにご発声に芯があり素晴らしかった。

万葉集全20巻朗唱の会②(10月12日)

大野藩元家老・内山邸で朗唱される石山市長

朗唱会の参加者がその地元から動画投稿するという手法により際立ったことがある。朗唱に加えて各地の土地柄が素のまま情報発信されたのである。福井県大野市からは、市長の石山志保氏が4首朗唱の前に自ら市の魅力をアピールされていた。「天空の城」で有名な大野城、名水百選に選ばれた「御清水」、大野藩元家老の屋敷・内山邸など。その中で最も惹かれたのは「御清水」である。五・七・五・七・七合わせて31文字という月の運行に即した韻律を朗唱することは浄心の源であり、夏は冷たく冬は温かく感じるきれいな地下水(井戸水)は健康体の源であろう。「観光」とはその土地の「光」を「観る」ことであるが、大野市にとってその最大の光は「御清水」であろう。ところで、地図を見ると42年前に新婚旅行で訪れた芦原温泉に近いということが分かった。親和性が湧いてきた。芦原温泉の近くには荒々しい波が打寄せ飛沫となる東尋坊という岸壁があり、そこには三好達治の「春の岬」の詩碑が立っている。大東亜戦争中の昭和19年から5年間、三好達治は大野市に隣接する坂井市に住んでいたのだ。福井県立大野高等学校の校歌の詞を三好達治が手掛けたのはその地縁に因るものであろう。話を元に戻すと、今回の朗唱の会のYouTube発信の手法は、東京一極集中の是正のための鍵のひとつではなかろうか。地方都市が全国各地からの情報発信を束ねるプロジェクトが多発的に推進されるのである。~ときはいま 雛が輝く 神無月~
中秋の名月(10月1日)

今日の21時17分に撮影

今日は旧暦で8月15日。旧暦で8月は中秋となり、月の満ち欠けで暦をつくる旧暦では、今日は15夜つまり中秋の名月となる。旧暦7月は初秋、9月は晩秋という訳だ。秋の七草や団子をお供えしたりするらしい。秋の七草は、万葉集所収の山上憶良の和歌に因み、団子は秋の収穫のひとつである芋の代わりという説がある。収穫という意味では、我が家の庭には栗と柿が実っている。栗ご飯が楽しみである。なお、山上憶良の和歌は、以下の2首である。
秋の野に 咲きたる 花を指折り かき数ふれば 七種(ななくさ)の花
萩の花、尾花、葛花、なでしこの花、をみなへし、また藤袴、朝顔の花
万葉仮名で書かれた万葉の和歌を読めるようにしたのは、浜松の先人である賀茂真淵の研究のお蔭である。



「森岡の家」のこと④(令和2年9月24日)

「森岡の家」邸内のイチョウの巨木群

常葉の土屋先生がまとめた報告書は、重要である、そして貴重である、という強調のことばで結ばれている。これを読めば誰しも「旧平野邸」(森岡の家)をないがしろにしてはいけない、そんなことをすればバチが当たる、と思うに違いない。平成24年(2012)5月31日付けで市役所に提出されたものの、その存続を審議する浜北区の地区協議会のメンバーの目に触れないまま「廃止」の結論に至った(平成26年1月23日)。浜松市による諮問内容は、平成26年3月31日をもって浜松市森岡の家を廃止すること、となっている。廃止の結論に誘導する意図が明らかに見てとれる。土屋先生による調査報告書提出から浜北区協議会への諮問に至るまでの1年8か月もの間、市民部文化財課とそれを指示した太田市議は何をしていたのだろうか?いずれにしても、この協議会からの答申を受けて浜松市議会で廃止条例が議決されてしまった。市議の方々は「森岡の家」廃止のことが議案に上程されていることを知らぬままに、いわばメクラ判を押したような形だったという。旧平野邸が当時の浜北市(森嶋市長)に寄贈されたのが平成5年(1993),浜北市が浜松市に吸収合併されたのが平成17年(2005)だった。
はままつ

1/15ページ 全部で75件中 1-5件を表示