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東京五輪開幕(令和3年7月23日)

コロナ禍のため延期になっていたTOKYO2020の開会式が本日午後8時より天皇陛下ご臨席の下華々しく開催された。しかし、その内容からは「日本」が抜けていた。全体を貫くテーマが「多様性と調和」という名の下に骨抜きにされていた。「君が代」独唱のミーシャという歌手の歌い方には清澄さがなく、発音や抑揚があばずれていた。「日本」が汚辱された感があった。一事が万事である。責任は現政権にある。

明治の報徳運動(令和3年7月11日)

報徳訓石碑

旧南庄内小学校からの帰り道、呉松町の神社に参拝した。國譲り神話の立役者・武甕鎚命を御祭神とする曾許乃御立神社で、神護景雲元年(西暦767年)創建という延喜式内社である。十数年前に初めてお参りした折に、拝殿横の報徳訓石碑を発見した。明治27年(西暦1894年)の建立と記されており、遠江國報徳社が浜松玄忠寺内に創設されちょり約20年後のことである。文明開化華やかなりし頃、農本主義を基調とする報徳思想・仕法も商工業の産業振興の潮流も生み出し殖産興業の牽引車的な位置に発展してゆく頃であった。地元に結社された報徳社3社(和地社、堀江社、白洲社)の出資によるものであった。127年経った今、石碑は苔むしており報徳訓108文字も判然としない。日清戦争を戦った頃でもあり、御祭神の武運長久のご神徳を仰いで建てられたのかも知れない。







二宮金次郎像(令和3年7月11日)

移送準備が整った金次郎像

本日早朝、旧南庄内小学校(浜松市西区庄和町)の校庭から金次郎像が台座ごと撤去された。大型クレーンによるその作業は篤志家KT氏のご尽力の賜である。移設先は浜松報徳館(浜松市中区元城町)で、遠州地方に報徳仕法を広めた安居院庄七翁顕彰碑(明治39年建立)脇に設置され、来月11日に除幕式が予定されている。
この石彫の金次郎像は昭和4年に設置されたが、松の巨木が覆いかぶさるように枝を張ったお蔭で長い年月の後も風雨に耐えて保存状態は極めて良い。そして、いままで見た石彫の金次郎像の中で一番表情が良い。昭和天皇が京都で即位された頃彫られたものであるから、鑿を振った石工の方はさぞかし清らかな祝賀気分と高揚感に包まれていたことだろう。
浜松報徳館は浜松東照宮に近く、参拝された方も鳥居を出る時にこの金次郎像を目にすることになる。昭和から令和へのバトンタッチがここに現出する。
報徳仕法の実践家 岡田良一郎(令和3年6月12日)

岡田良一郎(1839-1915)

遠州地方で最初に出来た報徳社は、浜松インター近くの下石田報徳社で、1847年の創設である。その翌年に倉真報徳社が岡田佐平治によって作られた。岡田は嘉永6年(1853年)に直接に二宮金治郎に教えを乞いに遠路日光桜町まで旅をした。そしてその翌年に長男の良一郎を二宮尊徳(たかのり)のもとに入門させた。良一郎15才の時である。
2年後に尊徳翁が他界したが、さらに2年その地に留まり報徳仕法を学んだ。明治8年(1875年)に佐平治が社長となって上部組織としての遠江國報徳社が結成された。場所は、浜松の玄忠寺という浄土宗のお寺である。父・佐平治が2年後に病没後はその二代目社長となる。以下、「輝く静岡の先人」(静岡県発行)より~
明治10年(1877) 自宅に私塾北学舎をを設立する
明治11年(1878)    掛川農学社を設立する
明治12年(1879)    資産金貸付所掛川分社(現・掛川信用金庫)を設立
明治13年(1880)    静岡県立掛川中学校(現・掛川西高等学校)の初代校長に就任する
明治44年(1911)    遠江報徳社を大日本報徳社に改称し、全国の報徳社の上部組織とする
大正  4年(1915)    死去






「輝く静岡の先人展」(令和3年6月11日)

浜松会場(なゆた浜北市民ギャラリー)での会期最終日、スタッフの皆さんとの記念写真

 いまから11年前であるが、静岡県主催の「輝く静岡の先人パネル展」の運営を委託されたことがある。その前年に作成された冊子「輝く静岡の先人」を基にパネル(A2サイズ)54枚で県内を巡回展示するという構想であった。開催地、会場の選定、会期、会場スタッフのリクルート、会場設営など県の文化政策課のチェックを受けながら進めて行った。会場は、沼津(アゴラ静銀ギャラリー)→静岡(静岡市民ギャラリー:旧市役所内)→浜松(なゆた浜北市民ギャラリー)→森町(小國神社研修室)の4ヶ所であった。
この冊子の中で紹介されている先は54名。静岡の礎を築いた方々というよりも、同時に近代日本の礎を築かれた各界の錚々たる面々である。偉人ではなく先人といい、また軍人が排除されている点が気になった。スタートの沼津では、会場がビルの8階だったこともあり入場者が少なかった。しかし静岡会場辺りからちょうどボレロのようにクレッシェンドしてゆき、最後の小國神社ではピークに達した。反響も良かった。先人縁の方も会場に見えたりもした。
  各会場8名の監視係を短期雇用し、会場の設営、会期中の監視係の仕事、会場の撤収までやっていただいた。朝礼と終礼を毎日やり緊張感が保てるようにした。





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