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瀧のこと(令和3年4月10日)

那智の瀧

横尾忠則展での「瀧のポストカード」インスタレーションは圧巻だった。12,000枚を壁面ばかりか天井にも張り巡らし、床に敷き詰められた鏡面によって曼荼羅図が出現したようだった。そこは、世界中の瀧が集まるサミット会場となっていた。それらの瀧の写真を撮った人々とそれを観る人との魂の交流が出現。こんなに多くのポストカードを収集した横尾忠則氏は瀧を統べる司祭のようだ。コレクションという英語訳に「集狂」を充ててもいい位だ。収集作業も、ある一定の数字を超えると自然に向うから押し寄せて来る。とにかくこの数量は尋常ではない。1992年に原宿キリンミュージアム、大阪道頓堀キリンミュージアムの2ヶ所で見て以来だから、今回は実に29年振りの遭遇となった。以下、白洲正子著「私の古寺巡礼」より~
清らかな水が老人を若返らせるという「復活」の思想は、神代から日本に存在した。いわゆる「變若水おちみず」の信仰で、みそぎもその一種に他ならない。水で身体を清めることによって、魂がよみがえると考えられていた。その中でも、深山から流れ出る清冽な瀧の水は,ことさら利き目があると信じられたであろう。そういう所から、瀧そのものを崇める信仰が起った。「那智の瀧」は、今でも瀧が御神体で、その前に鳥居が立っている。他にもそういう所はいくらもあって、人が知るほどの瀧は、すべて神格化されていたのではないかと思う。

横尾忠則展へ(令和3年4月9日)

会場入り口

1月から開催されていたが、今月11日迄だというのに気づき急遽名古屋まで車を走らせた。途中湾岸道路、名古屋環状線をナビで通らせられたが、風にあおられ気味で怖かった。会場は愛知芸術文化センターの10階にある愛知県美術館。広大なホールの半分を横尾展に充てていた。
大回顧展である。5才の時の「巌流島の闘い」から最近作まで実に80年間の各時代の代表作が一堂に会した形だ。実に壮大だ。展示点数687点。絵画作品のほかに、横尾氏のコレクションのコーナーもある。12,000枚にも及ぶ瀧のポストカードだ。床に鏡を敷かれ、曼荼羅のイメージが演出されている。世界中の瀧のサミットのようだ。圧巻そのものである。8歳の時の「瀧」から1985年のパリビエンナーレに出品された「瀧壺」、そして順路の中間部に配置された瀧のポストカードのインスタレーションへとつながる一本の線を感じた。.
聞くところによると、この会場は大問題となり愛知県知事のリコール運動tとなった「表現の不自由展」が開催された場所であるという。今回の横尾忠則展は、穢された空間のお清目の意味合いもあるのではないか。
ゲーテと般若心経、マーラー(令和3年4月6日)

1972年6月、大阪フェスティバルホールでのマーラー「千人の交響曲」公演

ゲーテの「ファウスト」は作者の死の前年(1831年)に完成した。その最終章はマーラーによって音符化され(交響曲第八番第二部)た。その日本での演奏を1972年6月、大阪で聴くことが出来た。朝比奈隆指揮+大フィル+大合唱団で総人数は1000人を優に超えていた。公演の前のゲネプロも聴くことが出来たのは幸運だった。宇宙が鳴り響く、とマーラー自身が表現したその音響世界を実感したのである。『神秘の合唱』が「ファウスト」の最後の最後の部分で、以下のように書かれている。般若心経の「色即是空空即是色」に符合しているではないか!
すべて移ろいゆくものは比喩にほかならず、
生じ得なかったことが、ここに顕れ、
名状し難きことも、ここに成就する。
永遠に女性的なるものにいざなわれ
高みへと我等は昇りゆく。

ゲーテが混迷し迷妄に覆われた魂を救わんと、「ファウスト」の原稿の仕上げに勤しんでいた頃、遠く離れた日本では二宮金次郎が
「一円融合」の認識に目覚める新勝寺での断食修行を行っていた。そして、「ファウスト」が脱稿された頃、金次郎は「報徳訓」をまとめあげたのである。


ゲーテと二宮金次郎(令和3年4月5日)

散りつつも命の限り山桜花 亀治郎

我が家の庭の桜は、昨夜の雨でだいぶ散ってしまった。下から見上げるとそうだったが、二階から見るとまだ盛りを謳歌しているようにも見えた。また白から淡い桃色に全体の色調が変化していた。1メートル位の苗木を次男(当時中学生)と植えてから花を咲かせるまで10年近くかかった。また開花時期も他の種類の桜よりもかり遅い。山桜なのに八重桜と同じ時期に咲く。そういった節理はどういう仕組みなのか?その因果応報のからくりとは?18世紀から19世紀にかけての同時代人で東西の知の巨星、二宮金次郎(1787-1856)とゲーテ(1749-1832)のその解明のためのアプローチに思いを馳せた。
①二宮金次郎の場合~「土着の思想、土から萌出でた思想」であると歴史学者・奈良本辰也(1913-2001)は記している。要は農作業の実践から編み出した、というのであろう。鍬で土を掘り種を蒔き、鎌で作物を刈り取るという農作業の始めと終わりの間には、自然との協調と闘いがある。種が芽を出すにも、水・空気・温度という自然の一定の法則の中でという条件下である。その過程の観察から報徳仕法&思想・報徳訓が生まれたのであろう。[長州出身の奈良本氏は、私の母校 松山東高校の隣地にあった松山高等学校・現愛媛大学の卒業である!]
②ゲーテは詩人であり、自然科学者でもあった。色彩論も書いている。またフリーメーソンの高位の会員でもあった。19世紀の終わり頃ゲーテ全集が企画されたが、自然科学の分野を編集・執筆したのが若きルドルフ・シュタイナー(人智学者、1861-1925)であった。そのことによってゲーテは自然観察を通じた霊学的アプローチでこの世を総べる原理の解明を試みた、と推論される。ゲーテの自然科学論集「自然と象徴」の解説文にも『いつまでも自然を見続けることによって、自然はその本質をおのずから明かしてくれるものであると考えていた』とあり、自分の推論があまり的を外れていないことと思われる。ゲーテは60年もかけて死の前年に完成した悲劇「ファウスト」の最終幕でその悟りを開陳した。つまり般若心経の
色即是空空即是色」の域に達した。東洋に遅れること実に千数百年である。



近江商人と近江聖人(令和3年3月20日)

中江藤樹像

近江商人の 「三方よし」という理念は、もしかして陽明学者・中江藤樹(1608~1648)の教えに導かれたものでは?と思ったところ、やはりそうだった。滋賀県高島市にある『近江聖人中江藤樹記念館』の富永館長によると~
・近江商人は藤樹の「日本の心」を全国に広めた.
・「日本の心」を行商という方法で全国へ広げていったのが近江商人である。
・「日本の心」とは、他人の悲しみや苦しみを見過ごせない優しいこころ。利他の精神である。
・中江藤樹が陰徳の大切さを説き、近江商人はそれを受け継いでいる。
鳥の唐揚げの店に入ったのがきっかけで、近江商人のこと,中江藤樹のことに繋がっていくとは!全くの驚きである。
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