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森岡の家のこと②(9月23日)

「森岡の家」座敷での意見交換会、平成26年(2014)9月23日

6年前の9月13日、浜松報徳館(中村雄次館長)で「森岡の家」問題が公にされ、後の保存運動団体「森岡の家市民の会」の母体となった。その10日後に貴布祢の現地で見学会が催され、早速邸内の座敷で有志による意見交換会が持たれた。「伐採は大変な文化的損失だ」「旧浜北市は植木の街として知られ、緑を大切にする文化があったはず」など邸内の黒松やイチョウの巨木伐採案に厳しい意見が飛び交った。
「森岡の家」とは、遠州の渋沢栄一と呼ばれる平野又十郎(嘉永六年~昭和3年)が明治22年に建てた邸宅で、当時入手できる最高の部材が使われている。遠州一の腕前の大工の棟梁が建てた。そして、平野又十郎は二宮尊徳の報徳思想に基き「同心遠慮講」という貯蓄組合を作り、地域の経済と文化振興に尽力、近くの薬師堂と共に自分の屋敷をその活動の場とした。つまり、般若心経で云うところの「色」(目に見えるもの)としての①邸内の樹木郡 ②邸宅・建築物、そして「空」(目に見えないもの)としての③報徳活動を
通じての社会貢献、これら三つが「森岡の家」が擁する文化的価値なのである。のちに長男の繁太郎氏から旧浜北市に保存することを前提に1993年に寄贈された時、その土地の字名が「森岡」であったため、「森岡の家」と称されることとなった。
「森岡の家」のこと(令和2年9月23日)

旧平野邸「森岡の家」の黒松、撮影:H26.9.13 8:00 am

「森岡の家」とは、遠州の渋沢栄一と言われる実業家・平野又十郎(嘉永六年 1853~昭和三年 1928)が明治22年(1889)に建てた邸宅の呼称である。土地の字名に因んでいる。右の写真は、その屋敷に植えられた黒松の巨木群である。敷地約1300坪を擁するこの「森岡の家」が壊されるようだ、という具体的な話を知ったのは平成26年(2014)9月12日(金)、西遠連合報徳社の個人社員仲間のKN氏からだった。お昼を食べようと思って入った中沢のうどん屋で彼に出くわしたのがきっかけだった。この年の春から友人と二人で保存活動をしていたらしい。もっと大きな運動にした方が良いと考えて、翌日の報徳社の常会の席で社員の皆さんに「森岡の家」存亡の危機について説明したら?と提案した。右の写真は翌13日の早朝に撮り、その足で元城の浜松報徳館に向かった。彼ら二人は用意したパネルで手際よくことの次第を説明、報徳社理事長の中村雄次氏に保存運動のリーダーになっていただけることとなった。保存運動が個人レベルから組織レベルへと拡大していったのである。以下の文章は、「郷土愛について」と題されていて、ひくまの出版が大正十二年(1924)に刊行した『土のいろ』の巻頭言で、宇波耕策という人が書いている。保存運動のスピリッツなるものをここに感じた次第である。「事物を深く理解することがやがてその事物を愛する基礎となる。郷土を愛しようとするものは郷土というものを深く理解しなくてはならない。現代人に欠けているものは郷土に対する理解である。その精神生活が盆栽の樹のように委縮して伸びないのは、郷土に対する理解という根が小さく絶たれてしまひ、従って郷土愛から来る所の愉悦の滋味で以て精神を養ふことが出来なくなってをり、伝統の泉から湧く力と信念との眞清水を以って精神の渇を潤すことが出来なくなっているからである。この精神をしてゆたかな滋味とうるほひを十分に摂取せしめ、さうしてみづみづしく枝葉が繁茂しつつ、亭々として雲を衝くやうな大樹に成長させなくてはならない。
九輪の朝顔(8月20日)

朝顔は朝顔というだけあって、朝見るのが一番だ。今朝は何と9輪も咲いていた。5輪咲いた時は宮本武蔵の「五輪書」を想起し、今朝の
9輪からは、ベートーヴェンの「第九シンフォニー」やゲーテの「ファウスト」の一節を思い出した。以下、ゲーテの「ファウスト」第一部に出て来る「魔女の九九」である。以下、その解明である。~千々松健・思考道より~
ゲーテのファウスト第一部 魔女の厨(くりや)では3行3列のマス目に数字が入った図表が登場します。初めは右の図表の上のように綺麗に並んでいますが、それを魔女はあるテキストを朗読しながら操作して、下の方の表に変えてしまうのです。(このところはゲーテを研究したルドルフ・シュタイナーの考えを元にしています)

「一を十となせ、二を去るにまかせよ、三をただちにつくれ、しからば汝は富まん、四は棄てよ、五と六より七と八を生め。かく魔女は説く。かくて成就せん。すなわち九は一にして、十は無なり。これを魔女の九九という。」

完成品は、下の図表になります。
縦と横にそれぞれ数字を足すと全てが15になっています。通常の3次魔方陣と異なるのは中心が5ではなく7であること、そして、斜めに足すと15にならない箇所が対角線上に一つあることです。

「一を十となせ」:1を10に置き換える
「二を去るにまかせよ、三をただちにつくれ しからば汝は富まん」:1+2+3=6、より10+2+3=15に増えるので得をする。
「四は棄てよ」:4は2行目からは棄てて、3行目の最後の端に持って行け。元の4は無くなるので0とする。
「五と六より七と八を生め」:5と6は7と8に交換せよ。
「かく魔女は説く。かくて成就せん」:このように操作すれば魔女の魔方陣が出来上がる。
「すなわち九は一にして、十は無なり」:これら9マスで1セットとなり、10マス目以上は存在しない。
「これを魔女の九九という。」:これを魔女の九九(方陣)と呼ぶ。

通常の(3次)魔方陣は5を中心にして縦横斜めが全て15になるのに対して、魔女の九九と呼ばれる方陣は7を中心にして1が10に、9が0に化けている上に対角線上の合計が21になってしまうのが特徴です。

ひふみ算」では9÷9は商が1で余りは0ですから 9の商は1です。(すなわち九は一)また、1=10と初めに出てきますが、ひふみ算(mod 9)では10は1でもあるのです。すなわち10÷9は商が1で余りは1ですから、10=1になるのです。(一を十となせ)
この点は、ユダヤ教の神秘思想にあるカバラ式計算と同様です。例えば、2012年8月15日と言う数字をカバラ算では、2+0+1+2+8+1+5=19、1+9=10 すなわち、1に置き換えるのです。位(桁)に関係なく数字を足せばよいので簡単です。

ファウストにおいて魔女が朗時に使用したテキストは古代ギリシャの神話であろうと言われています。ゲーテが数学上に言う(mod 9)に何らかの魔力を見ているのは確かなことのようです。ただし、インドのヴェーダ思想や日本の古神道の「ひふみ算」の存在には気がついてたかどうかは不明です。


五輪に因んで(8月16日)

今朝咲いた朝顔五輪

遅く種を蒔いたので花が咲くかどうか心配だったが、今朝は3株で5輪も咲いた。5輪というと、まずオリンピックを連想するが、東京オリンピックが武漢ウイルスのせいで延期になり、また来年の開催も危ぶまれているので、ここではパス。宮本武蔵(天正12年・西紀1584~せ正保2年・西紀1645)が著した兵法書「五輪書」のことを調べてみた。剣聖・宮本武蔵が剣術の奥義をまとめたもので、①地の巻 ②水の巻 ③火の巻 ④風の巻 ⑤空の巻の五つの切り口で記されている。
1⃣地の巻:自らの流を二天一流と名付けたこと、これまでの生涯、兵法のあらましが書かれている。「まっすぐな道を地面に書く」ということになぞらえて「地の巻」とされている。2⃣水の巻:心の持ち方、太刀の持ち方や構えなど、実際の剣術に関することが書かれている。3⃣火の巻:戦いについて。個人対個人、集団対集団の戦いも同じであるとし、戦いにおいての心構えが書かれている。戦いの事を火の勢いに見立て、「火の巻」としている。4⃣風の巻:他の流派について。「風」というのは、昔風、今風、それぞれの家風などのこととされている。5⃣空の巻’兵法の本質としての「空」について書かれている。
ちなみに、五輪の旗を掲げるオリンピックを「五輪」と訳したのは、読売新聞の川本信正記者。由来は「五輪の書」であるという。
~以上、ウイキペディアより
豊橋市美術博物館(8月14日)

三ヶ根山から浜松への帰路は国一を通った。豊橋市役所の建物が見えて来て、その隣が美術博物館であることを思い出した。企画展で「吉田城と三河吉田藩」を開催中だったが、4時半を過ぎていたので入場は出来なかった。吉田藩からは歴代4名の老中を輩出しており、7万石ながらも城の跡地を活用した緑豊富な公園の落ち着きからも格式の高さを偲ばせる。残念ながら、浜松にはこういう雰囲気の場所がない。
かつて見たことのある神武天皇像はすぐ見つかった。明治天皇のお顔を模したといわれる銅像は実に立派である。背後に豊かな水をたたえた川が流れており、その立地も素晴らしい。東名で帰っていたならばこういう体験は出来なかった。美術博物館に隣接するカフェでソフトクリームを注文。暑い中を歩いた後だけに格別に美味しく感じられた。市役所の建物、公会堂や吉田城跡公園など、文化の香りとセンスの良さを感じてしまった。

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