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浜松報徳館(6月13日)

浜松東照宮(中区元城町)の鳥居を出て直進30m位右手に浜松報徳館がある。明治18年に遠州の報徳運動の拠点として建てられた建物は戦災で焼け、昭和25年に再建された。幾つかの変遷を経て現在は、大日本報徳社(掛川市)のの分館として位置付けられている。50年前から西遠連合報徳社として毎月第二土曜日に常会が開かれているが、武漢発の新型コロナウイルス感染防止のため、4月、5月の常会は中止となった。今日は、本来4月に行われるはずだた「先賢物故者慰霊祭」が神官をお迎えして執り行われた。祭壇に神饌をお供えし、修祓・祝詞奏上・献餞など粛々と進行した。岡田佐平治、岡田良一郎、小野江善六ら、報徳運動の振興に貢献された先賢の名前が祭文の中で読み上げられ顕彰された。
芒種(6月5日)

二十四節気のひとつで、今年は6月5日~20日がこれにあたる。物事を始めるのに縁起が良いと言われる。
報徳の神髄(5月31日)

宮内大臣時代の一木喜徳郎

昭和15年は、我が国の皇紀2600年の記念すべき年であった。東京での紀元節祝賀行事は11月であったが、掛川ではそれに先立ち4月6日に大日本報徳社大講堂にて記念祭が盛大に開催された。時の第四代社長・一木喜徳郎が後世に残る名演説と言われた式辞を述べた。以下、その一部抜粋である。『元来我が報徳の教は天祖大神が豊蘆原を瑞穂国と開かせ給うた大道を則としたものでありまして、神武以来列聖が国を治め給うた皇道の精神を呈したものであります。夫れ故に報徳の教は啻(ただ)に身を修め家を斉(ととの)うるの道であるのみならず、又国を治め天下を平にするの道であります。報徳外記の語を借りて之を言えば、一家よりして二家に及ぼし、一邑よりして二邑に及ぼし、漸次郡・国・天下に及ぼし、遂に海外万国に及ぼすのが即ち天地人三才の大徳に報ゆる所以であります。二宮先生の対外思想は、皇道と帰結を一にし、八紘一宇の理念と符節を合するが如くであって、現下の事変処理の要諦も自ら其の裡に存すと謂うて宜しかろうと思うのであります。』
明治の一新(5月30日)

平櫛田中作「岡倉天心胸像」昭和6年、ブロンズ金箔

岡倉天心(文久2年、1863~大正2年、1913)は本名覚三、福井藩士の子として生まれ、横浜で育った。東京芸術大学の母体となった「東京美術学校」の設立に大きく尽力した人である。日露戦争の頃、日本文化を紹介する本を英文で出版した。「The Ideals of the East」(東洋の理想,1903,ロンドン)、「The Awakening of Japan」(日本の覚醒,1904,NY) 「The Book of Tea」(茶の本,1906,NY)などである。以下、「東洋の理想」からの一節である。『大きな黒雲の影が、みかどとみかどの朝廷のみ光をおほひ、みかどと万民の間の光明をさへぎった。そしてこの時幕末の志士たちは、泣いて奮起した。彼らは誓ってこの黒雲のさへぎるをはらひ、光明のかがやく古の大御心にかへすことを決意した。』この天心の記述には、幕末期におけるメンタルな社会構造の鋭い分析に基く篤い尊皇思想が滲んでいる。天心が生まれた文久2年(1863)に長州藩の5人のサムライがロンドンに密航した。いわゆる長州五傑といわれ、当初尊皇攘夷に動いていた。その前年に上海に渡って現地を視察、英国によって植民地化されつつある清の姿を見て開国論に目覚めた高杉晋作の勧めで伊藤俊輔(博文)は横浜からまず上海に渡った。刑死し江戸の小塚原に埋葬されていた師・吉田松陰を高杉晋作と共に世田谷に改葬したのが、
文久2年の5月。安政の大獄に斃れた松陰の「仇を必ず取ってみせる」という憤りは倒幕、明治維新の原動力となった。尊皇攘夷と開国佐幕はアウフヘーベンし尊皇開国となったのである。




身土不二(5月24日)

和洋菓子の製造販売会社「たこまん」さんの店頭(浜松市中区佐藤町)に『身土不二』と揮毫された扁額が架かっている。「郷土の恵まれた自然のもとで育てられ,旬の季節に採れた素材を新鮮なままに味わうこと」[同社ホームページより]  つまるところ「地元産のものを食しましょう」ということである。拡大解釈すれば、「国産品を愛用しましょう」「自国の文化を大切にしましょう」ということだろう。絵画の世界ではどうだろうか?岩水寺(浜松市浜北区根堅)境内に渡辺崋山の孫弟子・山下青崖画伯(1858-1942)の顕彰碑(記徳碑)がある。それが建立された昭和6年(1931)3月に浜松を会場に全國産業博覧會が始まった。この博覧会の開催趣意書は、時の浜松市長で大日本報徳社副社長を務めていた中村陸平氏によって次のように謳われた。「わが國産業の現況を展開公示して、国産の愛用および本邦産業貿易の進行発達に資すると共に、現下我国経済難局打開の一助たらしめんとす」(神谷昌志編著「見る読む浜松歴史年表」)。森町の鈴木藤三郎は砂糖を、湖西の豊田佐吉は織機を、浜松の山葉寅楠(紀州出身)はオルガンやピアノを国産化して日本の国益に大いに資献した。青崖さんは画業において日本回帰(脱・支那、南宋画から日本画へ)を果たした訳である。皆遠州の先人で「日本精神」の権化のような方々だった。そして、二宮金治郎(尊徳)の報徳精神を信奉していたのだ。報徳の人・松島十湖翁とコラボした青崖さんも報徳精神=日本精神を作品化したと云えるだろう。その本は「至誠」である。であるゆえに青崖さんの作品には清らかさと透明感があるのだ。ちなみに、「たこまん」社の平松社長も報徳の人である。
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