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パリ・オペラ座で美空ひばりを聴く(5月29日)

パリ・オペラ座の大休憩室

8年間のドイツ駐在を終え帰国したのが昭和61年(1986)、それから3年後にパリに赴任した。ちょうど革命200周年の年だった。成田からパリまでの機中では(この年の6月に亡くなったばかりの)美空ひばりさんの歌をウオークマンで聴いていた。家族(妻と6歳の長男)を呼び寄せるまで3か月ほど独身生活で、16区のAvenue Mozartに下宿住まいをした。会社から支給されたプジョー車で通勤し、カーステで美空ひばりさんの歌を聴いていた。休みの日にオペラ座の中を見学した折にもウオークマンでひばりさんを聴いていた。大休憩所(右の写真,天井高18m,長さ154m,巾13m)に入った時、丁度「芸道一代」が鳴り始めた。絢爛豪華な雰囲気にぴったりだった。ここはパリ社交界の応接間と言われている。もう少し長生きされていればパリ公演も実現し、オペラ座で生のひばりさんを聴くことが出来たかもしれない。と、いろんな思いを巡らした。日本と西洋文化のインターバルを意識させるオペラ座見学だった。83年前の今日29日、ひばりさんは横浜に生まれた。42年前に49歳で他界した私の母五月子も同じ誕生日である。(昭和3年生まれ) 感情移入するほどにひばりさんの歌を聴いていたが、それは私の耳を通して亡き母がそうしていたのかも知れない、とふと思った。


リヒャルト・ヴァーグナー(5月23日)

バイロイト祝祭劇場、毎年夏場の一定期間にヴァーグナーのオペラのみを上演する。

大学(大阪外国語大学)ではドイツ語学科に所属した。何故ドイツ語学科を志望したかというと、高校一年の時にバイロイト音楽祭の中継(?)をFM放送で聴いたのだが、その時耳にした女性アナウンサーのドイツ語の響きに魅かれた、というのが基本動機である。卒論のテーマが作曲家のグスタフ・マーラーだったため、楽器メーカーのY社の入社試験を受け、運よく合格。最初の配属先は東京支店渋谷店オーデイオ係だった。自社製品の小売りがメインの仕事だったが、需要創造の狙いもあって、新製品のPRという謳い文句でレコードコンサートを開いた。クラシックがメインで、有名な音楽評論家の方に解説をお願いした。浜松本社に転勤するまでの約2年半の間に10回実施した。そのうちの一回がリヒャルト・ヴァーグナーで、慶応大学教授を退任されたばかりの高橋巌先生にお願いした。「音楽とオカルティズム」という副題が付いていた。高橋先生はその10年後に日本人智学協会を設立された。1978年にドイツに赴任。1981年の夏、念願のバイロイト音楽祭のチケットを入手。夏休みの前半1週間はアテネ観光と地中海クルージングを楽しみ、後半1週間はバイエルン州のバイロイトでヴァーグナーのオペラを堪能した。
リヒャルト・ヴァーグナー(5月22日)

ライプツィッヒのヴァーグナーの生家

今日22日は、ドイツの作曲家ヴァーグナーの誕生の日である。地理的には旧東独に位置していたライプツィッヒに生まれた。時は1813年,今から207年前である。ハンブルク(ドイツ)にY社の駐在員として赴任した翌年(昭和54年・1979)、夏休みを利用して車で(Audi80,2ドア)東ドイツ、チェコ、オーストリア、南ドイツを周った。当時、ドイツは東西に分かれていた。最初に訪ねたのはバッハの生誕地であるアイゼナッハという国境に位置する町(東側)であった。国境を超えるとき検問があり、とても緊張した。次に、ゲーテが政治家をしていたヴァイマールでゲーテ記念館を訪ね、鉱石コレクションを観たりして自然科学者としての側面を知った。そこから東進してライプツィッヒに着き、ヴァーグナーの生家を探したが見つからなかった。ただ、ここのオペラ座の指揮者をしていたマーラーが交響曲第一番を作曲した下宿を見つけることが出来、またバッハのお墓がある聖トーマス教会の中に入ることが出来たのは望外の収穫だった。南進して、陶器で有名なマイセン、第二次世界大戦時に空爆で壊滅した後見事に復興したドレスデン、そこからチェコの古都プラハへと移動した。プラハの近郊では、マーラーの生家や少年時代を過ごした街を訪ねた。プラハを後にし、音楽の都・ヴィーン→高校一年の時(昭和41年・1966)見た映画「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台・ザルツブルグ→バイエルン王国の都ミュンヘン→ゲーテの生まれた町フランクフルト、そこから一路北上すること500Km、エルベ川を越えてハンブルクに戻った。結婚した翌年の家内との旅行の思い出が鮮やかに蘇った。当時私が28才、家内が23才であった。あれから40年、綾小路きみまろさんの名口上が頭をよぎった。
グスタフ・マーラーⅡ(5月19日)

晩年のマーラー

マーラーは、いわゆる世紀末の作曲家である。日本でいうと万延元年(1860)にボヘミアに生まれ、明治44年(1911)ウイーンで亡くなった。ウイーン音楽院に学び、指揮者としての活動で生計を立てながら夏休み期間中に作曲をした。日曜大工ならぬ日曜作曲家と呼ばれた。オペラは書かなかったが、交響曲を10曲と歌曲集を幾つか遺している。ドイツ語文化圏に属する芸術家である。本をよく読み、インテリだった。作曲家としての原点は、23才の時にバイロイトでヴァーグナーの最後のオペラ「パルジファル」を聴いたことだった。37歳にしてウイーン国立歌劇場の総監督となり1907年まで10年間務めた。その職に就くために、ユダヤ教からカソリックに改宗した。ドイツに駐在していた折、マーラー縁の地を訪ねる機会に恵まれた。1985年には、マーラーの命日である5月18日にウイーンに出張があり、お墓参りをした後、夕刻亡くなった病院まで行ってみた。夫人のアルマの手記に書いてあった通りの悪天候(雷交じりの嵐)となり、びっくりした。
グスタフ・マーラー(令和2年5月18日)

28才のマーラー

今から47年前の昭和48年(1973)、大学の卒論に取り組んでいた。テーマはドイツの作曲家グスタフ・マーラーだった。ゼミはドイツ文学だったが、指導教授の八木浩先生が「音楽でもいいよ」との一言があったのだ。先生自身「リヒャルト・シュトラウス」の訳書があった。当時、マーラーについての日本語文献がなく、大阪梅田の丸善に原書を注文、届くまで3か月を要した。ラジオ技術という雑誌に音楽評論家の吉田秀和先生がマーラーについての評論を連載を始められたばかりで、そのことは三ノ宮の書店で知った。「卒論でマーラーをやっております」旨記して年賀状をお送りしたところ、「どの部分に重点をおいていますか?頑張ってください」とのはがきを頂戴した。日本語で原稿用紙49枚、ドイツ語はオリベッティのタイプライターで20枚にまとめた。奈良の菖蒲池の下宿でレコードを聴きながら、原書を読みながら悪戦苦闘した。今から思うと、物質の世界とは違う価値空間に関わる機会があったことはよかったなあ、と思う。現在、アートフォースM&Kという屋号でアート展の企画・運営の仕事をしているが、アートフォース(artforce)とは、美の力、まさに目に見えないもに価値を見出す、という意味なので、素朴な感慨を覚えている次第である。ちなみに、八木先生からは『いろいろな思想家の暗示をたどり 予感的に対象に接近して エッセイ風にまとめるのに成功した、よい論文である。』との評をいただいた。今日はグスタフ・マーラーの命日である。
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