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「千人の交響曲」初演(9月12日)

ロダン作のマーラー頭像、1909年

丁度110年前の今日、グスタフ・マーラー(1860-1911)の「千人の交響曲」こと「交響曲第八番」が初演された。場所はドイツ バイエルン州の王都ミュンヘンであった。指揮は作曲者自身、合唱団が850名、ソロの歌手8名、オーケストラ171名 計1,030名という超大編成である。合唱団の中には児童合唱団250名も参加し、魂がとろけそうになるあの美しい天使のメロディーを歌った。四楽章構成ではなく、二部構成を採り、第一部では9世紀の修道士フラバヌス・マウルスによる讃歌「来たれ幸いなる聖霊よ!」、第二部ではゲーテの大作「ファウスト」の最終幕の場が音楽化された。この作品が完成した時に、マーラーは友人の指揮者メンゲルベルク宛てに「宇宙が鳴り響くのを想像してくれたまえ」と書いたというが、まさにそうだった。50年ほど前(昭和47年、1972)、大阪の中之島公会堂だったと思うが、朝比奈隆と大フィルによるこの曲のゲネプロ(Generalprobe,総練習)を聴く機会があった。会場の入り口に着いた時既に練習は始まっていて、第二部が洩れ聞こえてきた。まさに天上の音の調べであった。ミュンヘンの初演時での聴衆の感動と興奮の嵐は想像に難くない。1929年のノーベル文学賞受賞者で「ファウスト博士」を書いたトーマス・マン(1875-1955)も聴衆の一人だった。翌日の13日に再演された。翌年5月にマーラーは他界したため、この作品がマーラー自身によって初演された最後の作品となった。


朝顔10輪に因んで(9月8日)

1909年のマーラー

今朝は朝顔が10輪も咲いた。毎日何輪咲いたか見に行くのが楽しみであるが、何と今日は10輪も!10という数字からは、①「松島十湖」とか②「十戒」とかが思い浮かぶが、③マーラーの10曲目のシンフォニーである「交響曲第九番」に想いを馳せようと思う。「第九」が何故10番目になるかというと、本来9番目となった交響曲に番号を付けず「大地の歌」と呼んだからである。ベートーヴェンが交響曲を9曲書いて作曲家としての人生の幕引きとしたことを気にしたようなのである。言葉の場合「言霊」、数字の場合「数霊」とでも言えば良いかと思う。このマーラーの「交響曲第九番」(1909年作)を初めて聴いたのは丁度50年前、大阪の阪神デパートの電器製品売り場の一角だった。オープンリールが何台か置いてあって自由に使えるという何とも奇特な計らいのコーナーがあり、そこで大学の友人から借りたテープをかけて聴いたのだった。そして、これはヴァーグナーのオペラ世界の純粋器楽曲化だと直感した。

マーラーの「第八」(8月31日)

マーラーと婚約した頃のアルマ、20才

須佐之男命の和歌「八雲立つ 出雲八重垣・・・ 」は「愛」がテーマであった。高天原を追われ、荒野をさまよい、苦労(試練)に苦労を重ねた末での「愛の成就」だった。西洋文化に例を取ると、世紀末の作曲家マーラーの「交響曲第八番」も「愛」をテーマにしている。交響曲というと4楽章とか、5楽章編成であるが、この作品は二部構成となっていて、大編成のオケと8人のソロと合唱(大人と児童)合わせて1000人を超える巨大なステージである。。その第二部にはドイツの文豪ゲーテの「ファウスト」第二部最終幕の部分が採用された。以下、一番最後の「神秘の合唱」のくだりである。
すべての移ろい過ぎゆくものは
比喩・象徴となり
足りず、達し得ないことも
ここに成就する
名状しがたきことも
ここに成し遂げられる
そして、永遠に母性的なものが
我らを引きて高みに昇らしむ

この世を総べる原理、普遍の価値を求めて、老学者ファウストは悪魔メフィストフェレスに導かれて
思いもかけない体験を積んでゆく。美しい乙女グレートヘンとの悲恋もその過程であった。最後には
「母性的なるもの」に包まれてファウストの魂は救済されるのだ。

マーラーがヴィーンの社交界の華アルマ・マリア・シントラ―と結婚したのは1902年、42歳の時だった。アルマとは20歳以上も年が離れていて、数年後には夫婦間の危機に悩まされるようになる。恋多き女性アルマの所業に悩まされながらも1906年、マーラーは「交響曲第八番」を完成した。作曲小屋はオーストリアのヴォルター湖畔の別荘近くの丘の上に遺っており、ドイツ駐在時代に訪れたことがある。あれからもう40年が過ぎたことになる。


「愛すべき名歌たち」(8月13日)

13年前に亡くなった作詞家・阿久悠氏は昭和12年(西紀1937)淡路島の生まれである。ご両親は二人とも宮崎県生まれだが、お父さんが警察官で勤務の関係で淡路島に住んだという。「法と秩序」を遵守する立場の父親像と言えば、先般武漢肺炎の犠牲となった志村けんさんのお父さん(教師)もそうだった。長男はともかく、厳格な父親からは次男には文化芸能肌の人物が反動として育つのかもしれない。阿久悠氏の著書「愛すべき名歌たち」という本が岩波新書として21年前の夏にでている。「私的歌謡曲史」という副題をもつこの本の最初に紹介されているのが高峰三枝子が歌った「湖畔の宿」(昭和15年)で、戦死した11歳年上のお兄さんの思い出として綴られている。~兄は17歳で志願して海軍に入り、19歳で戦死した。終戦の一ヵ月前のことである。志願を決意したある日、ふたたび神戸へ行って、レコードを買って帰って来た。そしてポータブル蓄音機で何度も何度も聴いていたのを覚えている。結局、そのレコードが兄の唯一の遺品となる。高峰三枝子が歌った「湖畔の宿」一枚遺しただけの、兄の青春とか一生とかは何だったのだろうかと、今になると思う、兄が出征した後、ぼくは、その「湖畔の宿」をよく聴いた。特に兄をしのんでという思いでもなかったが、日常と違う何かを感じとっていたに違いない。それから間もなく、戦局が急を告げ、のんきにレコードを鳴らして聴いていることは許されなくなる。それでも、どうしても聴いてみたくなる時があって、そんな時は、ポータブル蓄音機を押し入れに持ち込み、布団をかぶって聴いたものである。そのころには、はっきりと、兄がわざわざ神戸へ買いに行き、何度も繰り返し聴き、そして遺していった物という意識があって、時々妙に悲しくなって泣いた。
「湖畔の宿♪」(7月29日)

戦地慰問中の高峰三枝子さん

大東亜会議の晩餐会の席で歌われたのが昭和15年に世に出た「湖畔の宿」である。歌う女優として人気を博していた高峰三枝子さん(1918-1990)が歌った。この曲は戦地慰問時に兵士からのリクエストが多かったという。特に特別攻撃隊の兵士は、日の丸の鉢巻きをきりりと締め拳を握りしめ直立不動の姿勢で聞き入っていたという。夜が明けると帰還のない出撃をする特攻隊員の心に高峰三枝子さんの澄んだ母性溢れる歌声がぴったりと寄り添ったのであろう。

(一) 山の淋しい湖に        

   ひとり来たのも悲しい心
   胸の痛みにたえかねて 
昨日の夢と炊き捨てる

   古い手紙のうすけむり

(二) 水にたそがれせまる頃 
    岸の林を静かに行けば
    雲は流れてむらさきの 
薄きすみれにほろほろと
   いつか涙の陽がおちる 
(台詞) あゝ あの山の姿も湖の水も
   静かに静かに黄昏れていく
   この静けさ この寂しさを抱きしめて
   私はひとり旅を行く
   誰も恨まず みな昨日の夢と諦めて
   幼児(おさなご)のような清らかな心を持ちたい  
そして そして

   静かにこの美しい自然を眺めていると
   ただほろほろと涙がこぼれてくる

 (三) ランプ引きよせふるさとへ 
書いてまた消す湖畔の便り
          旅の心のつれづれに 
          ひとり占うトランプの
          青い女王(クイーン)の 寂しさよ

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