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バイロイト音楽祭(令和4年7月26日)

バイロイト祝祭劇場、1882年

確か今日はバイロイト音楽祭の初日ではなかっただろうか?高校一年の時、FM放送でバイロイト音楽祭の実況中継を聴いた。女性アナウンサーのドイツ語に魅了された。進学した大学ではドイツ語ドイツ文学を専攻し、卒論では後期ロマン派の作曲家グスタフ・マーラーについて書いた。もちろんドイツ語で。日本楽器製造株式会社に就職し、東京支店渋谷店オーディオ係に配属された。新製品の発表を兼ねたレコード・コンサートを10回ほど開催したのであるが、その第6回目には慶応大学の高橋巌教授をお招きし『リヒャルト・ヴァーグナー、音楽とオカルティズム』というタイトルで講演していただいた。1976年8月28日、バイロイト音楽祭100周年の年で、開催日はゲーテの誕生日に設定した。1978年にドイツ(ハンブルク)に赴任し、1981年の夏休みには念願のバイロイト音楽祭のチケットを入手、一週間ほどヴァーグナー三昧の時を過ごした。あれから41年、今年は祝祭劇場が完成してから140年となる。
蛍の光「令和4年6月19日」

驚きである!小・中・高の卒業式では歌詞は2番までであったが、戦前は4番まで歌ったらしい。GHQの占領統治の一環で3番と4番は切り捨てられたらしい。まさに植民地化政策である。いまこそ目覚めなければならない!!
https://www.youtube.com/watch?v=uSBzZyIxdak
ほたるの光、窓
(まど)の雪。
(ふみ)よむ月日、重ねつつ。
いつしか年も、すぎの戸を、
明けてぞ、けさは、別れゆく。

とまるも行くも、限りとて、
かたみに思う、ちよろずの、
心のはしを、一言(ひとこと)に、
さきくとばかり、歌うなり。

第二次大戦後、以下の歌詞は学校では教えません。

筑紫(つくし)のきわみ、みちのおく、
海山(うみやま)とおく、へだつとも、
その真心(まごころ)は、へだてなく、
ひとつに尽くせ、国のため。

千島(ちしま)のおくも、沖縄(おきなわ)も、
八洲(やしま)のうちの、守りなり。
至らんくにに、いさお しく。
つとめよ わがせ、つつがなく。
「田園シンフォニー」(令和3年8月3日)

ベートーヴェンの散歩道

YouTubeで好きな曲を聴ける、しかも画像付きで。テレビで放送と通信の両方を楽しめるとは便利な世の中になったものだ。今朝はさわやかな曲ということで、ベートーヴェンの交響曲第六番「田園」を選曲。この曲はいわゆる標題音楽といわれるもののはしりであろうか?
ベートーヴェンが38才の時に完成され、3番や5番のシンフォニーを含めいわゆる「傑作の森」を構成する名曲である。しかも型破りである。5楽章編成であり、しかも第3楽章から第5楽章までは切れ目なく続く。形式よりも表現する内容に重きを置くという意味で、いってみれば20世紀の初頭に現出する「表現主義」の音楽の分野でのはしりでもある。
中学校の半ば頃だったと思うが、音楽の時間にこの曲を鑑賞する機会があった。魅せられた。実家は農家で、田植えの前の苗取りを手伝いながらあの「嵐のあとの喜びと感謝」のメロディーを口ずさんだ。口ずさみながら苗取りをした。呑気な時代だった。苗田の水はひんやりとし、仰ぎ見る空は青く空気はもちろん澄んでいた。ちょうど東京オリンピック開催の年であった。
ベートーヴェンがこの「田園シンフォニー」の構想を練ったという場所を訪ねたことがある。ドイツに赴任してから数年後の夏休みの折だった。32才の時ベートーヴェンは難聴のことを思い煩い、絶望の淵に立った。ハイリゲンシュタットという所で遺書を書いた。その場所で過ごした時の体験からこの田園シンフォニーが生まれた。ヴィーンの市街地から20キロ足らずの郊外である。「嵐のあとの喜びと感謝」とは、ベートーヴェンが苦悩を克服したのちの心境をも如実に表現したものであった。Freude durch Leiden(苦悩を通じて歓喜へ)である。

バッハの音楽(令和3年7月28日)

聖トーマス教会内のJ.S.バッハの墓

音楽の父と言われるヨハン・セバスチアン・バッハは、1750年の今日ライプツィッヒで65年間の生涯を閉じた。その墓はこの町の聖トーマス教会にある。ドイツに赴任した翌年の夏休みにこの教会を訪れたことがある。教会の中の床にその墓碑銘板があった。
初めてバッハの曲を聞いたのは、中学校の音楽の時間で「管弦楽組曲第2番」だった。そのEP盤を買ってもらったのを覚えている。アントニオ・ヤニグロ指揮ザグレブ室内管弦楽団の演奏だった。フルートはジャン・ピエール・ランパル。ただそれを聞くステレオを買ってもらったのは高校に進学してからだった。優雅というか、典雅な雰囲気に魅せられた。そのジャケットに使われていたのは、フリードリッヒ大王がこの曲のフルート部分を演奏しているシーンを描いた油絵で、その実物をベルリンの美術館で見ることになる。
バッハの曲の生演奏を聴いたのは、ハンブルクの聖ミヒャエル教会でのロストロポーヴィチによる無伴奏チェロ組曲だけである。バッハの作品にはBWV番号が付けられていて、全部で1087 曲もある。そのジャンルも多彩だ。BWV=Bach Werke Verzeichnis
今月20日にテレビを買い替えた時、これまでパソコンで見ていたYouTubeをテレビの大画面で見れるようになった。最初に接したのは、バッハのチェンバロ協奏曲BWV1052でバッハが50才過ぎの作品である。テンポが小気味よく、その音階の脳細胞への刺激がとても心地よい。ただチェンバロではなくピアノによる演奏となっている。
 https://www.youtube.com/watch?v=osg_WmeLxQk&t=14s



バイロイト音楽祭②(令和3年7月27日)

バイロイト祝祭劇場外観

Bayreuther Festspieleが原語であるから、本当は「バイロイト祝賀公演」と訳すべきだろう。だが、音楽祭と言い慣わしているのが現状である。Salzburger Festspieleもそうである。直訳よりもより丸みのある表現で日本人の知恵がしのばれる。
オペラは18世紀においては、イタリア語の台本が中心だった。モーツアルト(1756-1791)の最後のオペラ「魔笛」(Zauberfloete)辺りからドイツ語になっている。ベートーヴェン(1770-1827)の「フィデリオ」やヴェーバーの「魔弾の射手」(Freishutz)などもそうである。ドイツ人の民族精神の勃興が背景にあるのであろう。それらに続くヴァーグナーはさらに推し進めて楽劇(Musikdrama)なるものを創出した。民族文化に纏わる神話や伝承に題材を求め、壮大な規模の作品に仕立て上げた。魂の救済など宗教にもそのモチーフを求めた。「二―ベルンクの指輪」四部作の理想的な上演の場として、というのがそもそものバイロイト祝祭劇場建設の発端であった。
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