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「田園シンフォニー」(令和3年8月3日)

ベートーヴェンの散歩道

YouTubeで好きな曲を聴ける、しかも画像付きで。テレビで放送と通信の両方を楽しめるとは便利な世の中になったものだ。今朝はさわやかな曲ということで、ベートーヴェンの交響曲第六番「田園」を選曲。この曲はいわゆる標題音楽といわれるもののはしりであろうか?
ベートーヴェンが38才の時に完成され、3番や5番のシンフォニーを含めいわゆる「傑作の森」を構成する名曲である。しかも型破りである。5楽章編成であり、しかも第3楽章から第5楽章までは切れ目なく続く。形式よりも表現する内容に重きを置くという意味で、いってみれば20世紀の初頭に現出する「表現主義」の音楽の分野でのはしりでもある。
中学校の半ば頃だったと思うが、音楽の時間にこの曲を鑑賞する機会があった。魅せられた。実家は農家で、田植えの前の苗取りを手伝いながらあの「嵐のあとの喜びと感謝」のメロディーを口ずさんだ。口ずさみながら苗取りをした。呑気な時代だった。苗田の水はひんやりとし、仰ぎ見る空は青く空気はもちろん澄んでいた。ちょうど東京オリンピック開催の年であった。
ベートーヴェンがこの「田園シンフォニー」の構想を練ったという場所を訪ねたことがある。ドイツに赴任してから数年後の夏休みの折だった。32才の時ベートーヴェンは難聴のことを思い煩い、絶望の淵に立った。ハイリゲンシュタットという所で遺書を書いた。その場所で過ごした時の体験からこの田園シンフォニーが生まれた。ヴィーンの市街地から20キロ足らずの郊外である。「嵐のあとの喜びと感謝」とは、ベートーヴェンが苦悩を克服したのちの心境をも如実に表現したものであった。Freude durch Leiden(苦悩を通じて歓喜へ)である。

バッハの音楽(令和3年7月28日)

聖トーマス教会内のJ.S.バッハの墓

音楽の父と言われるヨハン・セバスチアン・バッハは、1750年の今日ライプツィッヒで65年間の生涯を閉じた。その墓はこの町の聖トーマス教会にある。ドイツに赴任した翌年の夏休みにこの教会を訪れたことがある。教会の中の床にその墓碑銘板があった。
初めてバッハの曲を聞いたのは、中学校の音楽の時間で「管弦楽組曲第2番」だった。そのEP盤を買ってもらったのを覚えている。アントニオ・ヤニグロ指揮ザグレブ室内管弦楽団の演奏だった。フルートはジャン・ピエール・ランパル。ただそれを聞くステレオを買ってもらったのは高校に進学してからだった。優雅というか、典雅な雰囲気に魅せられた。そのジャケットに使われていたのは、フリードリッヒ大王がこの曲のフルート部分を演奏しているシーンを描いた油絵で、その実物をベルリンの美術館で見ることになる。
バッハの曲の生演奏を聴いたのは、ハンブルクの聖ミヒャエル教会でのロストロポーヴィチによる無伴奏チェロ組曲だけである。バッハの作品にはBWV番号が付けられていて、全部で1087 曲もある。そのジャンルも多彩だ。BWV=Bach Werke Verzeichnis
今月20日にテレビを買い替えた時、これまでパソコンで見ていたYouTubeをテレビの大画面で見れるようになった。最初に接したのは、バッハのチェンバロ協奏曲BWV1052でバッハが50才過ぎの作品である。テンポが小気味よく、その音階の脳細胞への刺激がとても心地よい。ただチェンバロではなくピアノによる演奏となっている。
 https://www.youtube.com/watch?v=osg_WmeLxQk&t=14s



バイロイト音楽祭②(令和3年7月27日)

バイロイト祝祭劇場外観

Bayreuther Festspieleが原語であるから、本当は「バイロイト祝賀公演」と訳すべきだろう。だが、音楽祭と言い慣わしているのが現状である。Salzburger Festspieleもそうである。直訳よりもより丸みのある表現で日本人の知恵がしのばれる。
オペラは18世紀においては、イタリア語の台本が中心だった。モーツアルト(1756-1791)の最後のオペラ「魔笛」(Zauberfloete)辺りからドイツ語になっている。ベートーヴェン(1770-1827)の「フィデリオ」やヴェーバーの「魔弾の射手」(Freishutz)などもそうである。ドイツ人の民族精神の勃興が背景にあるのであろう。それらに続くヴァーグナーはさらに推し進めて楽劇(Musikdrama)なるものを創出した。民族文化に纏わる神話や伝承に題材を求め、壮大な規模の作品に仕立て上げた。魂の救済など宗教にもそのモチーフを求めた。「二―ベルンクの指輪」四部作の理想的な上演の場として、というのがそもそものバイロイト祝祭劇場建設の発端であった。
バイロイト音楽祭(令和3年7月26日)

バイロイト祝祭劇場内部

ドイツの作曲家リヒャルト・ヴァーグナー(1813-1883)はライプツィッヒで生まれ、ヴェニスで最期の時を迎えた。バイエルン王ルードヴィッヒ二世の庇護を受けて、自身の作品上演専用の劇場をバイロイト(南ドイツ)に得た。その建物は華美なものではなく、どちらかというと簡素であった。入口ロビーにしても、装飾的なものは一切無く、無垢の木がむき出しの状態だった。劇場が社交の場から作品主体の場・空間へと進化を遂げたのだった。内部座席は固い木製の椅子がギリシャの円形劇場のように並べられた。理想的な音響効果を得るために、現代においても空調は備えられていない。上演が始まると各入口のドアは施錠される。バイロイト音楽祭の初日は7月26日である。暑い。劇場の中には正装の紳士淑女が暑さと高湿度を耐え忍んでヴァーグナーの作品上演に神経を捧げて居るのだ。私も1982年にそれを体験した。心地よい音響世界に浸りながらも、サウナに居るようだった。但し、幕間には外に出れて焼きソーセージや生ビール、ワインを楽しめた。
マーラー「大地の歌」より『別れ』(令和3年7月25日)

キャスリーン・フェリーアとブルーノ・ヴァルター

マーラーの9曲目の交響曲である「大地の歌」には番号がふられていない。ただ「大地の歌」(Das Lied von der Erde)である。本来であれば交響曲9番であったが、べ――トーヴェンが「第九」を書いた後亡くなっているため、この番号を避けたと言われている。
李白や杜甫と言った支那の詩人の作品を集めた「支那の笛」(Die Chinesische Floete)から6点を選び、それらに曲を付けたものである。テノールとアルトが交互に歌い、最終楽章は李白の「別れ」(Der Abschied)によるもので、アルト歌手が歌っている。
マーラーの弟子であったブルーノ・ヴァルターによって1911年、マーラーの死後ミュンヘンで初演された。ヴァルターは1938年にアメリカに亡命したが、その14年後にヴィーンに戻りこの「大地の歌」をレコーディングしている。オケはヴィーン・フィルで最終楽章の「別れ」をイギリス出身のアルト歌手キャスリーン・フェリーアが歌っており、古今不滅の名盤と言われている。
https://www.youtube.com/watch?v=ojRRwbNC2hs
愛する大地は 
春の訪れとともに花々が咲き乱れ 
樹々が芽吹き新しい命がほとばしる
永遠に、永遠に、永遠に...

消え入るように、まさに永遠の命を切願するかのように歌声が消えてゆく...。1952年の録音であるが、その翌年にキャスリーンは42才に満たないまま生涯を閉じた。また、この「大地の歌」のあと「交響曲第9番」を書いたマーラーは1911年5月、51才の誕生日を目前にして、麗しの5月にこの世を去るのである。

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