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マーラーの使徒(6月5日)

静フィルによる「復活」コンサートのチケット

電気録音が始まったのは1927年、昭和2年のことだった。カール・シューリヒト指揮のブルックナー「交響曲第7番」がその世界初の快挙の栄を得た。日本では、1930年(昭和5年)、近衛秀麿指揮/新交響楽団によるマーラー「交響曲第4番」が世界初の電気式で録音された。生前は自身が作曲した作品に対して無理解や不評にさらされたマーラーは、”やがてきっと私の時代が来る”(Meine Zeit wied noch kommen)とよく言っていたという。マーラーの信奉者であったヴァルター(1876-1962)やクレンペラー(1885-1973)、そしてホーレンシュタイン(1898-1973)といったユダヤ系の指揮者が”使徒"となってその普及に努めた。録音技術の進歩は普及のための福音であった。日本でのマーラー普及に貢献したのは東京音楽学校(東京芸術大学音楽学部の前身)の教授としてやってきた(1936年/昭和11年)ローゼンシュトックであった。戦前は内地ばかりでなく満州にもハルビン交響楽団というのがあり、マーラーの交響曲が演奏されたと文芸評論家の河上徹太郎が書き記している。戦後はヴァルターからバーンスタイン(1918-1990)へ、さらに小澤征爾(1935-    )へとバトンはリレーされた。昨夜静岡市で「交響曲第2番」を指揮しマーラーの演奏史に印象深い一頁をしるした黒岩英臣(1942-    )もその系譜に連なるに違いない。そして、音楽を通じて東日本大震災の被災者の方々へエールを送ったという意味では、3月下旬にデユッセルドルフでベートーヴェンの「第九」を指揮した佐渡裕と目に見えない連携の関係にあったのだと思う。佐渡氏は大震災の後に”歓喜に寄せて”(An die Freude)を歌うのに気が引けていたようであるが、シラーによるこの詩の原題は、"自由に寄せて”(An die Freiheit)であったのだから、1989年ベルリンの壁崩壊の後ベルリンで「第九」を指揮した師バーンスタインがそうしたように、FreudeをFreiheitに置き換えればよかったのではないか、と余計なことを思ったりもした。

マーラー「復活」シンフォニー(6月4日)

マーラー「交響曲第2番」の総普表紙

久しぶりにコンサートに出かけた。マーラーの交響曲第2番「復活」である。故斉藤秀雄門下の黒岩英臣指揮による”手に汗握る”素晴らしい演奏だった。静岡市民文化会館の大ホールを埋め尽くした聴衆を深い感動に導き、終演後の会場は興奮の坩堝と化した。掛け値なしに拍手大喝采を浴びたのである。マーラーのこの曲を生演奏で聴くのは今回で4度目(であったが、今日ほどこの作品の全体像を感動・感銘とともに感じ取れたことはなかった。黒澤明監督が”映画は劇場でみなくちゃ..."ということばを遺しているが、大編成のマーラーの曲もしかりだ。浜松から車で出かけたのであるが、昂揚した気分で帰路に着いたのであった。今年は作曲家グスタフ・マーラー(1860-1911)の没後100周年(昨年は生誕150周年)の節目の年である。それを記念してか、静岡フィルハーモニー管弦楽団が、その創立35周年記念特別演奏会の演目にこの曲を取り上げたのだ。~企画・運営:(財)静岡市文化振興財団、静岡市文化教会~ 当初プログラムにはなかったグリーグの「悲しい二つの旋律」が演奏された。会場アナウンスにより演奏終了後の拍手は控えられ、東日本大震災で犠牲になられた方々への哀悼の誠が捧げられた。次にモーツアルトの「ドン・ジョバンニ」序曲が演奏されたが、指揮者としてのマーラーは(死後100年近くも低調だった)モーツアルト演奏の復活に大いに貢献した功績があり、特に「ドン・ジョバンニ」の公演はブラームスも絶賛するほど定評があっただけに、大曲「復活シンフォニー」の前の”序奏”としても的を得た選曲であった。亡きモーツアルトも、そしてマーラーの霊もさぞかし喜ばれたことだろう。15分の休憩のあと、いよいよ「復活」である。この曲はマーラーの10曲のシンフォニーの中で、「第3番」(100分)に次ぐ長さで90分近くある。バイオリンとダブルベースの主旋律の掛け合いで緊迫感をもって始まり、聴衆が息を呑む中、黒岩氏(背格好、指揮振りがマーラーに似ている)のタクトのもと楽団員それぞれのパート、独唱者、合唱団員が一致団結して、まさしく心をひとつにしてこの難曲に挑み、大合奏フィナーレまで高度の合奏力を示したのである。この曲の”復活”という標題に、東日本大震災の”復興”を重ね合わせていたのに違いない。”ことあるとき”に日本人は”おおしさ”を示すのである。
    敷島の 大和心の おおしさは ことあるときに 現れにけり(明治天皇御製、日露戦争時)

自然への賛歌②(6月1日)

グスタフ・マーラー(1860-1911)の交響曲第3番は演奏時間100分を要する長大な作品で、ギネスブックにも載ったようである。交響曲は普通4楽章編成であるが、マーラーの場合変則的である。5楽章以上のものが全10曲のうちちょうど半分、5曲ある。時代はまさに産業革命後の帝国主義勃興の時代で、大英帝国を筆頭に欧州各国は植民地経営=”膨張主義”が時代の華であった。そのの空気をいちはやく嗅ぎ取って表現される芸術作品も大掛かりなものとなったのであろう。この「第3番」は6楽章編成で、後期ロマン主義の芳しさをちりばめるように、各楽章にマーラー自身が文学的な標題を付けている。最終楽章は、”Was mir die Liebe erzaehlt:愛が私に語ること”となっている。アッター湖(ザルツブルクの近く)の湖面のように静寂の世界とがっちりリンクしているように、モーツアルトのジュピター(交響曲第41番)の終楽章の様に、ただひとつのメロデイーが終始一貫して流れてゆき、遠きかなたに吸い込まれてゆくように消えてゆく。協調と融和の世界観がそこに色濃く表現され、主張されているようだ。対立する要素が対位法的に葛藤する世界ではない。東洋的和の世界に徹している。全部で100分の演奏時間を要するこの交響曲は、8本のホルンの斉奏で勇壮に始まり、弦楽器群が奏でる単一のメロデイ合奏を中心に、一時大きく盛り上がった後、静かに終わる。ちなみに、数年前に亡くなったベルギー20世紀バレー団の主宰/モーリス・ベジャール氏はこの曲を基にバレー作品を創作したことがあるが、氏もこの”協調と融和”の精神に共鳴したのだろう。(なんと、今年11月3日、4日に東京文化会館でその公演があるようだ!)

自然への賛歌(5月30日)

オーストリアにあるアッター湖。ハンブルク時代のマーラーは夏休みをここで過ごした。

マーラーの交響曲第3番のコンサートをテレビで放送していた。この曲はアッター湖畔の作曲小屋で作曲された。1895年のことである。この湖は東西20キロメートル、南北4キロメートルのオーストリア最大の湖である。ハンブルクにいたとき一度だけ訪ねたことがある。大雨の日だった。宿をとってその一階のレストランで夕食を食べていたとき、雨に加えて雷が轟き稲妻が光った。自然の威力の凄まじさを体験した。マーラーはここで自然のいろんな様相を肌で感じながら交響曲第3番を作曲したんだろうなあ、と想像した。ある日、湖の向こう岸から船で訪ねてきた弟子のブルーノ・ヴァルターにこういったという。”きみはもうここの景色を見る必要はないよ。新しい交響曲の中にここの自然のすべてを表現しておいたからね。”


昭和の歌姫・美空ひばり(5月29日)

パリの旧オペラ座のホール

今日は平成元年(1989年)に亡くなった国民歌手・美空ひばりさん誕生の日である。ひばり囀る季節のこの日、昭和12年だった。西洋かぶれだった私に日本回帰のきっかけとなったのは、箱崎のバスターミナルで買った”エバーグリーン”というひばりさんのCDだった。ハンブルクに帰ってから「津軽のふるさと」や「リンゴ追分」を聴いた。原点回帰のようなものを強く感じた。昭和60年(1985年)のことだった。日本の情景を歌うのにピッタリの声の質だった。「ひばりの佐渡情話」や「お島千太郎」も好きだが、「芸道一代」はもっと好きだ。1989年8月にパリに赴任した時、飛行機の中でひばりさんの曲が入ったテープをウオークマンで聴いた。オペラ座の中を見学した時、ベルサイユ宮殿の鏡の間のような広間で「芸道一代」を聴いた。ミスマッチであったが、いたく感動した。ひばりさんの霊が近くにいるようだった。今日は東京で、74回目の生誕コンサートが開かれたようである。また、31日より、ひばりプロ(加藤和也代表)が茨城県いわき市で4000食の炊き出しを実施するとのことである。ひばりさんも草葉の陰からあたたかく見守っていらっしゃるに違いない。


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