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桶狭間の戦い②(令和3年3月28日)

信長が熱田神宮を参拝して桶狭間に向ふた時の想像畫

教科書ではどのように記載されているのかを、大正12年発行の児童参考本で調べてみた。この本は、尋常小學國史の研究という本で、第六学年を対象に書かれている。
[桶狭間の戦]
永禄三年今川義元が駿・遠・三の兵四萬五千を率ゐて上京せんとし、尾張に入り織田氏の二壘を抜いて桶狭間附近の田楽狭間といふ所に陣を取った。信長は僅かに二千の兵を以て五月十九日大雷雨に乗じて義元の陣を襲ひ散々に討ち破った。時に信長は二十七歳の壯年であった。
・小が大を制した先例となった。ロシア帝国に挑み日露戦争に勝利した大日本帝國もしかりである。
桶狭間の戦い(令和3年3月27日)

「見参!」雷雨荒れ来る桶狭間の陣営に、突入した織田方の勇士は、敵将今川義元におそいかかった。

昨夜9時より市川海老蔵がドラマ「桶狭間」に信長役で主演していた。だが、何故今頃なのか?翻って60年前読んだ『少年太閤記』(吉川英治著、講談社、昭和32年刊)の事を思い出した。巻末に日本歴史小説全集の宣伝があり、『おもしろく読みながら、社会科の実力がぐんぐんつく、評判の名著です』と謳っている。少年太閤記・決戦川中島・日本武尊物語のことが挿絵入りで軽く紹介されている。浜松に本社を置く日本楽器に就職した地の利のおかげでこれら縁の地を訪れることが出来た。久しぶりにページをめくった。
[門出の舞]
人間五十年 化転のうちをくらぶれば ゆめ、まぼろしのごとくなり
信長は、立って、しずかな足どりと、手の曲線をえがきながら、舞ってはうたい、また吟じては、舞いめぐった。
―花のたもとを すみぞめの 十一の里は、すみ衣 いま着てみるぞ、由もなき ーーひとたび、生をうけて 滅せぬものの あるべきか
信長は、ここでポーンと、舞の扇を投げすてて、「死のうは一定!いざ、まいろう」と、室をでた。
吉川英治の筆さばきが見事である。名調子で吟じられる講談のようである。
[朝雲望んで]
熱田の町へきたころ、夜は、白みかけていた。信長は、熱田神宮のまえに駒をとめて、森の深くへ、祈願をこめた。そして、つめたい神泉の水を一口吸ってまた、東へいそいだ。



今日3月10日は、かつて「陸軍記念日」であった。日露戦争時の奉天の会戦(明治38年、西紀1905)で日本軍が勝利した日に因んでいる。奉天は、現在の中華人民共和国遼寧省瀋陽である。日露合わせて60万人の兵士が闘ったという。指揮官は薩摩出身の大山巌であった。日露戦争での日本側の勝利を決定付けた日本海海戦の2ヵ月前である。
そして、それから丁度40年後のこの日、アメリカ(民主党)は帝都東京を空襲した。大日本帝国の「記念日」を辱めるためである。一晩で10万人が虐殺された。ジェノサイドであった。そのことを日本人は忘れてはいけない。米国・民主党政権がやらかした暴挙である。
この陸軍記念日に亡くなった旧軍人がいらっしゃる。平成20年(西紀2009)3月10日だった。大日本帝国陸軍准尉・田形竹尾氏である。

ニ・二六事件(令和3年2月26日)

ニ・二六事件観音像

昭和11年(西紀1936)のこの日、帝都東京において国家改造を狙ったクーデターが勃発した。二・二六事件である。数年前の五・一五事件(犬養毅総理を襲撃)の背景と火種を共有している。経済恐慌と農村飢饉、そして理論的&思想的支柱もまたしかりである。北一輝(1883-1937)と大川周明(1886-     )。「大塩平八郎の乱」(天保八年・西紀1837)と同じく, 「動機」は義挙であった。
[備考]
1.第4代大日本報徳社社長を後に務めた一木喜徳郎(1867-1944)は、当時枢密院議長として襲撃の対象であった。
 2.最後の元老・西園寺公望は難を逃れた。当時、興津(静岡県)の別宅にいた。
 3.大川周明は、ルドルフ・シュタイナー(1861-1925)の「社会三分節」を日本に紹介した。大川はこの本を五・一五事件の
   イデオロギーの土台としたという。①精神的自由 ②法の下の平等 ③経済的自立
 4.二・二六事件の犠牲者、処刑された青年将校らを弔う観音像が、昭和40年に建立された。渋谷区宇田川町の陸軍刑務所跡。



竹島(島根県)のこと(令和3年2月22日)

韓国が不法占拠を続ける竹島

今日22日は「竹島の日」である。竹島は島根県から211キロメートルの所に位置する岩礁の島である。無主地であることを確認の上日本に編入する旨閣議決定されたのが明治38年(西紀1905)1月28日であった。まさに日露戦争の最中、日本海海戦の直前である。翌月の22日に島根県知事・松永武吉により所属所管を明らかにする告示が行われた。その100周年の年・2005年(平成17年)にこの日が「竹島の日」となった。第二次小泉内閣の時である。以下、ウキぺディアより。
~ 日本は1951年9月、第二次世界大戦の戦後処理であるサンフランシスコ条約(1952年4月発効)で朝鮮半島などを放棄したが、放棄した島に竹島は含まれていなかった。この時、韓国は北朝鮮との間で内戦(朝鮮戦争)を行っていたが、サンフランシスコ条約が発効する直前の1952年1月、アメリカが発効まで一時的に日本の施政権範囲を設定していたマッカーサー・ラインに倣い、一方的に李承晩ラインを設定し竹島を韓国側水域に含めた。~
島根県選出の有力自民党議員は細田博之氏で、「竹島の日」が制定された時の内閣官房長官であった。その後2007年には日朝国交正常化を目指す議員連盟・自民党朝鮮朝鮮半島問題小委員会を外交部会の中に立ち上げ副委員長に就任している。また、2020年からは自民党島根県連会長をお務めである。
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