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日本二千六百年史より(令和3年1月8日)

大川周明著「日本二千六百年史」は昭和15年の紀元節に向けて企画され発行されたもので、その前年の7月に第一書房より刊行されている。初版3万部、8月に19000部、9月に3万部増刷された。社主の長谷川巳之吉氏による「戦時体制版の宣言」が巻末に記されており、次の下りがある。~私は第一書房設立以来十五年、一意或る理想をもって出版を続けて来たのでありますが、特に今日に於いて一層、良書出版の意義とその必要の大なるを思ひ、出版報国を第一義とする戦時体制版の刊行に邁進するに至ったのであります~ 「出版報国」とは、「七生報国」を彷彿させる正に肝の据わった言葉である。以下、第五章「大化の改新」より:『聖徳太子は、動揺紛糾せる当時の国家問題を解決す可き確固たる方針の確立者であった。即ち太子は神道を以て政治の根本主義となし、国民の道徳的生活をば、儒教によりて向上せしめ、仏教によりて、宗教的醇化を図ったのである。かくて太子は、舊を失うことなくして新を抱擁する溌溂たる帰一の精神によりて、相次いで入来れる亜細亜文明の精髄を、我が国民生活に於ける適当なる局面に摂取し、以て新しき時代の扉を開いたのである。』 どうだろう、これを読んで直ちに想起されるのは二宮尊徳翁の道歌「古道に積もる木の葉を掻き分けて天照大神の足跡をみん」である。
ベルリンの壁崩壊記念コンサート(12月17日)

1989年8月にパリに赴任した。三ヵ月の単身生活を経て家族(妻と長男)を呼び寄せた頃、ベルリンの壁が崩壊した。その記念コンサートがバーンスタイン指揮の下、バイエルン放送交響楽団を核に世界から集まった演奏家による臨時結成のオケがベートーヴェンの「第九」をベルリンで演奏した。詩と音楽の融合として、ヴァーグナーの楽劇の創出にも影響を与えたエポックメーキングな作品である。その第四楽章にはシラーの詩「歓喜に寄せる讃歌」(Ode an die Freude)が採用されているが、その原題は実は「自由に寄せる讃歌」(Ode an die Freiheit)であった。これ以上に相応しい作品はあるまい。12月25日だった。行きつけのヴァージン・レコードというショップは巨大な旧銀行の建物を再利用しており、シャンゼリゼ通りにあった。上記の歴史的演奏を収録したCDのケースの一角にはベルリンの壁の小さな破片が入っていた。
12月8日という日(令和2年12月8日)

横尾忠則作のポスター「ジョン・レノン」(筆者所蔵)

79年前の今日、大日本帝国海軍は米国太平洋艦隊が駐留する真珠湾を攻撃した。大東亜戦争の勃発である。その歴史的なことの報道が何故か見受けられなかった。産経新聞の産経抄でもそのことには一切触れず、40年前のこの日、ニューヨークの自宅前で銃撃されたジョン・レノンについての記述に絞っていた。「イマジン」という曲が生まれたいきさつについてである。曰く、外交評論家の加瀬英明氏はジョン・レノンと結婚したオノ・ヨーコさんの従兄妹で、ジョン・レノンと会った時、神道についてレクチャーをしたとのこと。それが「イマジン」という曲の詞の素地になっているという訳だ。「和の國」日本の神道に学び平和を訴える姿勢はいいのだろうが、松下幸之助が唱えたPHP(Peace and happiness through Prosperity)の理念に「戦う」ことが欠けているように、ジョン・レノンの詞にもそれが欠けている。おまけに、「no countries」を希求してもいる。根無し草である。神道を生かじりして消化不良を起こしている感じだ。


昭和95年(令和2年11月25日)

50年前の11月25日付け朝日新聞夕刊

あれから50年。つまり、昭和45年の今日11月25日に三島由紀夫が東京市ヶ谷駐屯地で自決した。そのことを知ったのは当日の夕刊でだった。大学(大阪外語大)の2年の時で、70年安保闘争で騒がしく、また大阪万博が開催された年でもあった。東京オリンピックから6年後の年でもあり日本の経済成長が活況を呈していた時期でもあった。田中角栄内閣による日中国交回復がなされたのもこの頃だった。購読していたのは朝日新聞だったろうか?当時はこの新聞のいかがわしさにも気づかない、文字通り右も左も分からない田舎出の二十歳前のボンボンだった。下宿は永源寺というお寺(天王寺区谷町九丁目)の墓地の一角にある離れだった。しかも周りはラブホテル街。暗くなってドアを開けると、目の前に墓石が林立し、見上げると極彩色のネオンサインがぐるぐる回っているというとてもシュールな環境だった。死と生、彼岸と此岸が隣合わせというか...。50年前の今日という日の夕方5時ごろ、暗くなった墓地の一角にある離れのドアの下の隙間から、配達された夕刊がスッと差し入れられた。三島事件を報じるでっかい見出しが真っ先に目に飛び込んできたのである。「割腹自殺」とあるが、正しくは「割腹自決」であろう。ものの道理をわきまえない朝日新聞特有の汚い表現である。

 天皇(後奈良天皇)疫疾えきしつ流行の際に、般若心経を筆写して祈禳きじょうせしめ給うた。それは天文三年(西暦一五三四年)のことで、春から夏にかけ、諸国に疫疾えきしつ流行して、死するものが甚だ多かった。天皇はその年五ぐわつ、伊勢神宮に一七箇日の祈祷を行はせられ、諸社寺に命じて祈禳きじょうせしめ給うた。六月に至っては、畏くも親しく般若心経を筆寫ひっしゃして、大覚寺に納め給うた。

 即ち天皇は、遠く嵯峨天皇の弘仁九年(西暦八一八年)の春、天下(てんか)大疫(だいえき)の時、嵯峨天皇が般若心経を書寫(しょしゃ)し給うた古例に(なら)わせられて、般若心経を筆寫(ひっしゃ)し給ひ、その功徳を以て蒼生(そうせい)の病難を除かんと祈念し給うたのである。 浅間神社の所蔵にかかるものには、國名甲斐國(かひのくに)の下に(つづ)けて「國土安穏,萬民和樂」とある。國土萬民を御 念し給ふ大御心(おおみごころ)奉察(ほうさつ)せらるるのである。

 (なほ)これには武田信玄が一()を附して次の如く記してゐる。

 人皇百五代後柏原天皇第一皇子今上皇帝宸筆

その包紙に次の如くある。

 勅筆

 奉納神前般若心経一巻天文十九年   卯月廿日大膳大夫晴信 

尚別に、信玄自筆の短冊が添へてある。
 うつしうええるはつ瀬の花のしらゆふをかけてそいのる神のまにまに

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