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二宮金治郎生まれる(令和3年7月23日)

尊徳座像(岡本秋暉作、報徳博物館蔵)

旧暦ではあったが、今日7月23日は農聖といわれる二宮金治郎[尊徳](1787-1856)生誕の日である。以下、内村鑑三著「代表的日本人」(原題Representative Men of Japan,1908年)より~
19世紀のはじめ、日本農業は、実に悲惨な状態にありました。200年の長期にわたってつづいた泰平の世は、あらゆる階層を問わず人々の間に贅沢と散財の風をもたらしました。怠惰な心が生じ、その直接の被害を受けたのは耕地でありました。多くの地方で土地からあがる収入は3分の2に減りました。かつて実り豊かであった土地には、アザミとイバラがはびこりました。耕地として残されたわずかな土地でもって、課せられた税のすべてをまかなわなければなりません。どの村にもひどい荒廃が見られるようになりました。正直に働くことがわずらわしくなった人々は、身を持ち崩すようになりました。慈愛に富む大地に豊かな恵みを求めようとはしなくなりました、代わって、望みない生活を維持するため、相互にごまかしあい、だましあって、わずかの必需品をえようとしました。諸悪の根源はすべて道徳にありました。「自然」は、その恥ずべき子供たちには報酬を与えず、ありとあらゆる災害を引き起こして、地におよぼしました。そのとき、「自然」の法と精神を同じくする一人の人物が生まれたのです。

明治維新のアジア史的意味(令和3年7月17日)

熾仁親王による五か条の御誓文写し

産経新聞の『正論』欄に寄稿されている平川祐弘氏(昭和6年~ )は浜松の竹山家所縁の方である。ドイツ文学者で「ビルマの竪琴」の著者・竹山道雄(1903-1984)の娘婿である。竹山道雄は大日本報徳社第二代社長・岡田良一郎の三男・純平が浜松の竹山謙三の養子となり、生まれたのが道雄で、今日は誕生日である。
以下、平川祐弘氏の『正論』欄寄稿記事(平成30年3月6日)より~
聖徳太子や福沢諭吉は日本が進むべき文明史的方向を示した。聖徳太子は漢字文化の学習を奨励、古代中国を文明の範とした。福沢諭吉は漢籍でなく英書により近代文明を学ぶ必要を説き、「脱亜入欧」を主張した。語学的には「脱漢入英」である。1868年、日本は目を西洋に転じた。明治維新は狭義には幕府崩落,大政奉還、王政復古、五か条の御誓文などを、広義には廃藩置県、殖産興業、富国強兵、憲法発布、議会選挙などの近代国家の建設をいう。
300年続いた満州族による清朝を倒した辛亥革命(1911年、共和革命)後に中華民国の仮総統になった孫文の「明治維新は中国革命の第一歩」という言葉は、新日本が中国に及ぼした刺激を示唆している。
因みに、慶応4年3月14日、京都紫宸殿で五か条の御誓文が出たと同じ日、江戸田町の薩摩藩邸で西郷隆盛と勝海舟の間で江戸城開城が決まった。

1989年③11月(令和3年7月16日)

ベルリンの壁の前で演奏するロストロポーヴィッチ、1989年11月

パリに赴任して3か月後にベルリンの壁が崩壊した。テレビでその様子を報じたニュースに接した。チェリストのロストロポーヴィツチ(1927-2007)が壁の前でバッハの無伴奏チェロ組曲を弾いていた。
  https://ze.blog.fc2.com/blog-entry-1379.html
また、その翌月の12月には世界中から集まって編成されたオーケストラでベートーヴェンの「第九」が上演された。指揮はレナード・バーンスタインだった。シャンゼリゼ通りにあって凱旋門近くのヴァージン・レコードのショップで買ったそのCDには小さな壁の破片が組み込まれていた。第四楽章では、Freude歓喜→Freiheit自由!と言い換えられていた。
西ドイツ(ハンブルク)に駐在していた頃(1978-1986)は、隔年開催のIFA(国際放送技術展)という見本市への参加でよくベルリンを訪れ、東西ベルリンを隔てる壁は否応なしに眼にした。東ベルリンへはチェックポイントチャーリーという検問所を通り緊張感を味わった。
1983年11月には、横尾忠則夫妻を案内した。「PM8:20 エアフランスでベルリンへ。ベルリン空港でハンブルクからガイドに来てくれた亀岡君と合流。レンタカーを借りる。...深夜ベルリンの壁を観に行く。実にシュールな光景だ。」(「横尾忠則の画家の日記」、アートダイジェスト社、1987年) 



フランス革命(令和3年7月14日)

バスティーユ牢獄の襲撃、1789年7月14日

かつてフランス革命の勃発地となったバスティーユ要塞監獄には政治犯が収容されていたが、その数僅か7名。襲撃した目的は政治犯救出というよりもそこにあった弾薬庫収奪にあったという。放棄した民衆を鎮圧すべき国王の軍隊は戦意貧弱で、民衆側に回った者も数多くいた。みっともない話である。我が国で云えば、近衛兵や旗本が職務放棄したようなものだ。
18世紀半ばにイギリスに起った産業革命は社会構造に大きな変化をもたらす引き金になった。植民地経営においてイギリスの後塵を拝したフランスでもいわゆるブルジョア階級が勃興し、それまでの制度に不満を募らせるようになった。ルイ16世はギロチン初使用による断頭台の露と消えた。ヴィーンのハプスブルク家から嫁いだマリー・アントワネットも同様の運命を辿った。
フランス革命のキーワードは、自由・平等・博愛といわれているが、当初は自由・平等・財産だったという。「王殺し」は褒められたものではないが、徳を備えなかったルイ16世が自ら蒔いた種だったのだろう。
バステイーユ要塞監獄は今は広場となり、その一角には文化の殿堂としての新オペラ座が建ち、断頭台が設置された場所はシャンゼリゼ大通りの東端に位置しコンコルド広場となっている。その北辺に建つのがかの有名なホテル・リッツである。
1989年①7月(令和3年7月13日)

トロカデロ広場からセーヌ河対岸のエッフェル塔を望む

今から32年前の7月下旬,Y社の本社所属という形でパリに赴任した。ちょうどフランス革命200周年の年だった。ドイツ駐在の時は単身生活が半年であったが、海外2回目の駐在ということで3か月後に家族(妻と6才の長男)を呼び寄せることが出来た。それまでは、会社が用意してくれた下宿に住んだ。16区のAvenue Mozartにあり、それまでの下宿者は日本人の若い女性で、部屋の机の上に「星の王子様」を残していった。◇パリに赴任した日をパスポートで確認しようとしたが、1990年4月に日本への出張後帰仏したおり、シャルル・ドゴール空港で盗難に遭ったため、手元にあるのは再発行されたものでそれも叶わなかった。
革命200年祭ということで、パリの街はお祭りムードで盛り上がっていた。セーヌ川に花火が打ち上げられ、エッフェル塔には100ans(100年)のネオン文字が設置されていた。Y社のフランス現法は、パリ市の東方にあった。出勤時はコンコルド広場の横を走り、セーヌ川沿いのqueという自動車専用道路に降りて幾つもの橋の下を潜り抜けそのまま高速道路へ。途中に信号がなかったため約30分で着いた。帰宅時はセーヌ川の反対側のqueを走った。丁度エッフェル塔を下から見上げるという形だった。エッフェル塔の完成&開業が1889年なので、革命100周年記念事業の目玉だったのだろう。またパリ万博の年でもあった。



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