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西郷の局(令和5年3月4日)

題字:杭迫柏樹先生、森町ご出身

西郷の局(1552-1589)は徳川家康公(1543-1616)の側室で第二代将軍・秀忠公の母である。お墓は静岡市の龍泉にあるが、生まれたのは掛川の地である。令和ちょうど一年前に顕彰碑が建てられた。報徳の心篤い米穀商・石野ご夫妻が私費を投じたのである。その一周年記念祭が午前10時より開催された。一年前の除幕式の時は風が吹き荒れたという。今日は春うららかな好天に恵まれ大勢の人が集まった。会場は家光公を斎る龍華院で掛川城から徒歩数分の丘の上の広場である。
来賓挨拶に続いて、会場には清らかな歌声が響き渡った。掛川少年少女合唱団とありがとう広め隊のメンバーにより6曲が披露された。特に橋本洋子さん率いる「ありがとう広め隊」は二宮尊徳翁の報徳精神に則って活動をしており、①ふじの山 ②おぼろ月夜 ③二宮金治郎そして ④ありがとう の4曲を斉唱した。築山御前(1542-1579)と同じく38才でこの世を去った西郷の局の御霊に手向けられたのである。
関東大震災のこと(令和4年9月1日)

避難民や羅災者の親族でごった返す浜松駅

99年前の今日午前11時58分32秒、関東地震が発生した。マグニチュード7.9だった。阪神淡路大震災時には圧死が多く、また東日本大震災時には溺死が多かったのに対して大正12年(1923)の関東大震災の時は焼死が多かったという。被災地域は東京、千葉、茨城、埼玉、山梨、神奈川、静岡など広範囲に及んだ。死者・行方不明者約10万5千人。その中には小田原や藤沢、鎌倉の別荘に避暑滞在中の皇族女性3名もいらしたという。
当時在日仏大使だった詩人のポール・クローデルの手記には次の様に記されている。~被災者たちを収容する巨大な野営地で暮らした数日間.....私は不平の声ひとつ耳にしなかった。唐突な動きや人を傷つける感情の爆発で周りの人を煩わせたり迷惑をかけたりしてはならないのだ。同じ小舟に乗り合わせたように人々は皆じっと静かにしているようだった。

鉄道の歴史(令和4年8月27日)

関口隆吉(天保7年~明治22年)

新橋・神戸間の東海道線の全駅開通は明治22年7月1日であった。我が国での最初の鉄道敷設は明治5年、新橋・横浜間であった。なので、今年は鉄道150年の年に当たる。東から、また西の方から順次17年の年月をかけて繋いでいったわけだ。ちょうどトンネルを両側から掘り進めるように。ちなみに鉄道という言葉は、英語のrailwayおよびドイツ語のEisenbahnの両方を睨みながら訳出したものだろう。rail=横木、way=道、Eisen=鉄、Bahn=軌道。
東海道線の事故第一号は正式開通(4月16日)の直前に起った。その事故であろうことか静岡県初代知事・関口隆吉(1832-1889)が不慮の死を遂げた。以下、ウキぺデイアより~
明治22年(1889年)4月11日、名古屋で行われた第三師団の招魂祭への列席のため、自身が敷設に尽力した東海道線開通試運転の工事用貨物列車に併結された客車に乗車中、他列車との正面衝突事故に遭い、客車の前に連結されていた貨車から突き刺さった鋼材が足を直撃し、左足足首打撲骨折の重傷を負う[1]。医師の所見では右足の切断を要する程の重症であるにもかかわらず、関口は頑としてこれを拒んだため、この傷から感染した破傷風が致命傷となり、同年5月17日に亡くなる
安倍総理の死(令和4年8月6日)

かけがえのない人を日本は失ってしまった。今年の2月には石原慎太郎氏が亡くなった。石原氏はいわば自然死で天寿を全うされた、と言えるだろうが、安倍総理は違う。凶弾に倒れたのだ!果たして、あれは単独犯によるものだったろうか?多くの疑念が沸き上がっている。
以下、頑張れ日本全国行動委員会姫路支部の動画2件である。
①   https://www.youtube.com/watch?v=v9wZO1UA_yU&t=187s 18分

② https://www.youtube.com/watch?v=Ud8KhRb4XS0&t=21s 15 分
樺美智子さんの死(令和4年6月15日)

今日6月15日は、60年安保闘争のデモに参加して命を失った東大生・樺美智子さんの命日である。大学2年生の時は、70年安保闘争の年で,学内は全共闘や全学連の連中のアジ演説やびら配りで騒然としていた。その前哨は一年前の入学式の時からあった。式が始まった途端、白ヘルを被った全共闘の連中が壇上に雪崩込んできて入学式をぶち壊してしまったりした。あの蛮行は許せない。「晴れの場」を穢したのだ。わざわざ松山の田舎から参列した母もびっくりしただろう。
当時はアジ演説を聞いても何のことかよく呑み込めなかった。訳も分からず友人に誘われるまま京都でのデモに参加したりもした。この年は大阪万博の年でもあり、何かとアップテンポの空気が支配的だった。
樺美智子さんの遺稿集「人しれず微笑まん」(三一書房)が前年に第6刷となっておりそれを買って読んだりもした。デモに参加して犠牲となったということに対する同情心を募らせながら読んだ。20才の誕生日に日本共産党に入党したいわゆる活動家だった。石原慎太郎氏が当時「自分で自分を踏み殺した女子学生」と評したのも、今から思うとむべなるかなである。
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