久しぶりに映画館に足を運んだ。いわゆる商業映画は自宅近くの(車で7分位)東宝シネマ浜北で観るが、今日はは浜松駅近くのシネマイーラという小さな劇場である。映画のタイトルは「君たちはまだ長いトンネルの中」。
原作は「マンガでわかるこんなに危ない⁉消費増税」というコミックである。政治経済がテーマで、作者は70冊もその手の文献を読んだという。そこからして感動ものである。エンタメとは程遠いテーマを掘り下げてそれを広範囲にスプレッドしようとしする試み。迷いなく果敢に挑む姿勢。実現は難しい。現に、この映画のパンフレットに令和新選組の山本太郎氏が寄稿していて、こう言っている。~消費税を題材に映画?それは不可能ではないか??消費税廃止よりハードルが高いぜ???震えて待つ!!!~
でも、ちゃんと実現した!コミックを基に脚本を書き、スタッフや俳優をオーガナイズし、資金を工面して映画化を実現した監督のなるせゆうせい氏は偉い!舞台挨拶では、
①コロナ禍の折り、行政からの不要不急の外出は控えるべしのお達しに対する憤りが映画製作の原動力になった。
②リアルタイムでヒトラーを皮肉ったチャップリンのような映画作りを目指したい。シリアスな内容とエンタメのアウフヘーベン。
映画のパンフレットにサインをしていただき、頑張って下さいという意味で握手を交わした。聞けば45才ということだった。45才といえば、三島由紀夫が自決した年齢である。もうすぐあの日から52年である。
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映画界の巨匠・黒澤明監督24年前の1998年9月に88才で亡くなった。アートフォースM&Kという屋号でスタートし、蔵ギャラリーでのコレクション展を焼津→掛川→浜松→松本と巡回し終わったすぐ後のことだった。
翌年2月に黒澤監督の側近だったK氏のご協力を得て、「画家としての黒澤明」という展示会を開催した。1990年にパリの劇場で封切されたばかりの「夢」を見た。黒沢映画を観たのはそれ1回だけだった。あとはビデオで見るしかなかった。
「影武者」と「乱」の絵コンテをリトグラフにしたものをK氏が所蔵されており、それをお借りした。監督が亡くなった直後のことにて大勢の黒澤ファンが押し寄せた。会場は生涯で32本の作品を作った黒澤談義に花が咲いた。
いろんな方との出会いがあり、そのうちのお一人が映画編集の第一人者で映画「東京裁判」(1983年)を編集した浦岡敬一氏だった。
翌年2月に黒澤監督の側近だったK氏のご協力を得て、「画家としての黒澤明」という展示会を開催した。1990年にパリの劇場で封切されたばかりの「夢」を見た。黒沢映画を観たのはそれ1回だけだった。あとはビデオで見るしかなかった。
「影武者」と「乱」の絵コンテをリトグラフにしたものをK氏が所蔵されており、それをお借りした。監督が亡くなった直後のことにて大勢の黒澤ファンが押し寄せた。会場は生涯で32本の作品を作った黒澤談義に花が咲いた。
いろんな方との出会いがあり、そのうちのお一人が映画編集の第一人者で映画「東京裁判」(1983年)を編集した浦岡敬一氏だった。
海洋冒険家・堀江謙一氏が二度目の太平洋単独無寄港横断に成功した。しかも、史上最高齢の83才での快挙である。。一度目は丁度60年前の昭和37年(1962)、堀江氏が23の時であった。その翌年に早くも石原裕次郎を主役にした「太平洋ひとりぼっち」という映画が出来ている。今日そのDVD(Digital Versatile Disc)を観た。配給は日活であるが、そのロゴはいたって陳腐である。
俳優陣には懐かしい名前が連なっている。森雅之(父親)、田中絹代(母親)、ハナ肇(高校のヨット部の先輩)、大坂志郎(ヨットの設計者)、芦屋雁之助(船大工)、それに妹役が浅丘ルリ子である。監督は市川崑。音楽に武満徹と芥川也寸志の二人を起用し、心理描写と情景描写をうまく分担させていることに刮目した。そこに気鋭のただならぬ創造意欲を感じた。
この映画は、昭和38年(1963)1月に設立されたばかりの石原プロダクションによる制作第一弾だったのである。なるほどと合点。石原裕次郎はただの映画俳優ではなかった。兄の慎太郎氏の芥川賞受賞作「太陽の季節」で端役としてデビューし、「狂った果実」で主役を演じて以来数多くの作品に出演したが、ありていの通俗的なものに辟易していたという。そんな折、堀江謙一氏の原作に出会い、創作意欲を駆り立てられたのだろう。自身がヨットマンだったことも大きな要因である。ある意味、堀江氏の太平洋横断達成が石原裕次郎の映画人としての活路を拓いたと言えるだろう。
俳優陣には懐かしい名前が連なっている。森雅之(父親)、田中絹代(母親)、ハナ肇(高校のヨット部の先輩)、大坂志郎(ヨットの設計者)、芦屋雁之助(船大工)、それに妹役が浅丘ルリ子である。監督は市川崑。音楽に武満徹と芥川也寸志の二人を起用し、心理描写と情景描写をうまく分担させていることに刮目した。そこに気鋭のただならぬ創造意欲を感じた。
この映画は、昭和38年(1963)1月に設立されたばかりの石原プロダクションによる制作第一弾だったのである。なるほどと合点。石原裕次郎はただの映画俳優ではなかった。兄の慎太郎氏の芥川賞受賞作「太陽の季節」で端役としてデビューし、「狂った果実」で主役を演じて以来数多くの作品に出演したが、ありていの通俗的なものに辟易していたという。そんな折、堀江謙一氏の原作に出会い、創作意欲を駆り立てられたのだろう。自身がヨットマンだったことも大きな要因である。ある意味、堀江氏の太平洋横断達成が石原裕次郎の映画人としての活路を拓いたと言えるだろう。
今からちょうど20年前、「映画編集の匠・浦岡敬一展」を開催した。会場は、入野町のギャラリー蔵だった。磐田の中川研一氏が集めた
浦岡敬一氏が編集した映画のポスターを中心に、台本、諸資料、編集機材などを並べた。地元浜松だけでなく東京からも浦岡さん縁の方々がお見えになり、盛況を呈した。会場入り口には、浦岡さんが昭和58年に編集を完成させた「東京裁判」のポスターを展示した。そのポスターの上に飾ったのが、以下の浦岡敬一氏による「ごあいさつ」である。
~昭和34年、私は小林正樹監督作品『人間の条件』六部作の編集者に抜擢され、平成4年鈴木清順監督作『結婚』までの33年間をフィルムエディター(映画編集者)として挑戦の日々を送ってきました。ー途中略ー 映画は生病老死、喜怒哀楽を表現するものだと言いますが、私の映画生活は、その通えい人間を見つめ続けて来た日々でした。それは、フィクションのドラマに心をぶち込んで過ごした50年でもありました。どの作品にもある主義主張を明確に表現するためには、編集と云う作業は、唯単にフィルムをつなぎ合わせればいいものではなく、理論に沿って構築された映像表現芸術であらねばなりません。そういった意味合いからも、一緒に仕事をさせて頂いた大島渚、篠田正浩、中村登、山田洋次、左幸子、実相寺昭雄、杉田成道、これらの監督が自由に任せてくれたのは、私にとって至上の喜びでした。すばらしい監督、スタッフ、俳優に人間としての生き方を教えて貰った人生でした。映画編集に対する疑問にどれだけ克明に御説明できるか、会場にて誠心誠意対応するつもりです。平成13年5月18日(金) ~
浦岡敬一氏が編集した映画のポスターを中心に、台本、諸資料、編集機材などを並べた。地元浜松だけでなく東京からも浦岡さん縁の方々がお見えになり、盛況を呈した。会場入り口には、浦岡さんが昭和58年に編集を完成させた「東京裁判」のポスターを展示した。そのポスターの上に飾ったのが、以下の浦岡敬一氏による「ごあいさつ」である。
~昭和34年、私は小林正樹監督作品『人間の条件』六部作の編集者に抜擢され、平成4年鈴木清順監督作『結婚』までの33年間をフィルムエディター(映画編集者)として挑戦の日々を送ってきました。ー途中略ー 映画は生病老死、喜怒哀楽を表現するものだと言いますが、私の映画生活は、その通えい人間を見つめ続けて来た日々でした。それは、フィクションのドラマに心をぶち込んで過ごした50年でもありました。どの作品にもある主義主張を明確に表現するためには、編集と云う作業は、唯単にフィルムをつなぎ合わせればいいものではなく、理論に沿って構築された映像表現芸術であらねばなりません。そういった意味合いからも、一緒に仕事をさせて頂いた大島渚、篠田正浩、中村登、山田洋次、左幸子、実相寺昭雄、杉田成道、これらの監督が自由に任せてくれたのは、私にとって至上の喜びでした。すばらしい監督、スタッフ、俳優に人間としての生き方を教えて貰った人生でした。映画編集に対する疑問にどれだけ克明に御説明できるか、会場にて誠心誠意対応するつもりです。平成13年5月18日(金) ~