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バッハの音楽(令和3年6月8日)

ライプツィヒ(ドイツ)の聖トーマス教会前のJ.S.バッハ像

 クラシック音楽を聴き始めたのは中学校の音楽の時間だった。NHKのラジオ番組「クラシック音楽入門」も聴いた。雑音がうるさい真空管ラジオだったが、基礎英語という番組を毎日聞くためということでトランジスターラジオに買い替えてくれた。母が農閑期に工事現場の仕事をしてお金を貯めてくれたのだった。ナショナルというブランドで松下電器の製品だった。そのラジオでNHKのクラシック音楽の番組を全て聞いていた。基礎英語も中学の3年間毎日欠かさず聞き、英語の成績は優だった。大木正興とか門馬直美、藁科雅美、そして諸井誠といった評論家や作曲家の解説に聞き入った。戦争未亡人の祖母(明治38年-昭和58年)が仲人をしていただいた謝礼で買ってくれたソニーのテープレコーダーですべての音楽番組を録音、繰り返し聞いた。
   初めて買ったレコードは、J.S.バッハ(1685-1750)の「組曲第2番」で、EP盤だった。演奏は、アントニオ・ヤニグロ指揮 ザグレブ室内管弦樂団、フルートはジャン・ピエール・ランパルだった。東京オリンピックの年だった。
後日談であるが、藁科雅美先生には、日本楽器に入社後渋谷店で企画したレコードコンサートの解説をお願いすることになる。確かテーマがブラームスの時だった。

静岡という地名の由来(令和3年6月3日)

本日静岡県知事選挙が告示された。投開票は6月20日で、この日は何と「静岡」という地名が町触れされた日である。江戸から明治へと切り替わったことの節目の日である。「新しい県政」が始まった日であった。そのことを記す石碑を見たのは11年前のこと。
2010年、静岡県主催の「輝く静岡の先人」展の運営を委託され、県下4会場を廻ったことがある。①沼津市(静銀ギャラリー)→②静岡市(市民ギャラリー)→浜松市(なゆた浜北ギャラリー)→④森町(小國神社) 静岡市民ギャラリーを擁する旧静岡市役所の正面玄関脇に静岡の地名由来を記した石碑があった。以下、静岡市のホームページより~
 『静岡の由来

明治二年(1869)廃藩置県を前にして駿府または府中といわれていた地名の改称が藩庁で協議された 重臣の間では賤機山にちなみ賤ヶ丘といったんは決まったが藩学校頭取の向山(むこうやま)黄村(こうそん)先生は時世を思い土地柄を考えて静ヶ丘即ち「静岡」がよいと提案され衆議たちまち一決同年六月二十日「駿州府中静岡と唱え替えせしめられ候」と町触れが達せられた 以来百有余年富士を仰ぐふるさと静岡の名は内外に親しまれ県都として今日の発展を見るに至った
ここに市制施行九十周年を迎え黄村先生の遺徳を敬仰しゆかりの地藩庁跡に市名の由来をしるす
 昭和五十四年四月一日  静岡市                                           』

                        
という碑が静岡市役所本館前に設置されています。

この由来碑は昭和54年に設置されたものですが、昭和60年以降の静岡県史編纂事業による調査において、静岡の名称についての新資料(国立公文書館所蔵 公文録)が確認されました。その資料は、『府中藩が明治政府に3つの名称案「静岡」、「静(しず)」、「静城(しずき)」を上申し、明治政府が「静岡」を採用』したことがわかる資料でした。この候補の考案に、向山黄村が深く関わったと考えられています。平成28年5月 文化財課
静岡県知事選挙(令和3年5月29日)

自民党静岡県連青年局キャラバン部隊、浜松市浜北区での街宣活動

 本日午後2時に自民党静岡青年局によるキャラバン部隊が近隣の地に到着した。会場は西友浜北店前の「うな新」駐車場である。その反対側で待機していた参集者の方へ岩井茂樹候補(52才)が渡って来られた。一番最初に私と短い会話をしていただき、順次参集の方々と挨拶を交わされていた。一番印象的だったのは、11年前に参議院議員になられた時と変わらない誠実なお人柄であられることだった。
青年局次長の稲葉浜松市議の挨拶のあと第一声を発したのは我らが城内実衆議院議員である。県政における世代交代の必要性を訴えられた。城内氏もまた初回当選時と変わらない誠実で謙虚なお方である。マイクを握った岩井候補は、県政における対立構造を思いやりと融和へと転換し、現下の停滞状況を打破したいと訴えられた。
ちなみに、今回の県知事選の投開票日である6月20日は、駿府が静岡に改名された日(明治2年)でもある。江戸から明治へと時代が大きく舵を切り、静岡が新しいスタートを切ったその日に投開票が行われるのである。「世代交代」の自然な流れ、新しい風を感じるのである。

日本海海戦②(令和3年5月28日)

東郷平八郎元帥(前列中央)と秋山真之参謀(同右端)

 日露戦争におけるリーダーは、陸軍は乃木希典、海軍は東郷平八郎(1848-1934)であった。それぞれの出は長州と薩摩で、両藩共維新前には欧州列強と戦火を交えた体験がある。東郷平八郎は、薩英戦争に参加した(15才の時)。また、桜田門外の変に関与した有村雄助の縁戚に連なる者としてその切腹の場に立ち会ったりもしている(12才の時)。武士の子として胆力がしっかり鍛えられていた。今流に言うと、東郷半端ない!である。日本海海戦の折には、旗艦三笠の艦橋に立ったまま一歩も動かなかったという。日本海海戦の大勝利の大きな要因はこの大東郷の胆力に裏打ちされた統率力にある。
    明治38年5月27日午前6時頃、旗艦三笠より大本営に以下の文面が打電された。。~敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チ二出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪髙シ~ この後半部分は参謀秋山真之(伊予松山藩)によるものであるが、単なる情景描写ではない。秋山自身の立案による「七段構えの戦法」の中の第一段はやらない、ことを意味していた。第一段とは、[主力決戦前夜、駆逐艦・水雷艇隊の全力で敵主力部隊を奇襲雷撃する]であった。
   七段構えの戦法のうちの第二段、第三段のみでバルチック艦隊を殲滅し得たのである。それだけ明治日本は一枚岩であった。神武天皇の『うちてしやまん』の精神がこの海戦の時にはあった。それが日露戦争勝利の『本』であった。



日本海海戦(令和3年5月27日)

27日13時55分東郷司令長官により掲揚が指示された「Z旗」

116年前(明治38年)の今日、日露戦争における日本海海戦が闘われた。この時の大日本帝国海軍連合艦隊の司令長官は薩摩の東郷平八郎、旗艦は戦艦三笠だった。当時は欧米諸国によりほとんどのアジア諸国が植民地化されていた。国の守りを担保する軍事力が弱かったためだ。16世紀半ばにして火縄銃の大量国産化をものとした実績を礎として文武両面で連綿と築き上げられ増強された国力が他国の侵略を許さなかった。その一番の源が皇室の存在である。明治大帝の日露戦争時の御製が想起される。~敷島の大和ごころの雄々しさは事あるときぞ現われにける~
13時55分、旗艦三笠の艦橋に立つ東郷平八郎司令長官により「Z旗」の掲揚が指示された。これは「皇国の興廃コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」を意味していた。そして14時05分、東郷司令長官の右手が高く揚がり左回顧(=取舵一杯)が発令され、あの有名な「丁字戦法」が開始された。参謀秋山真之が提唱したものである。結果は我が国の大勝利だった。独立を死守し得たのである。時の宰相は長州の桂太郎であった。






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