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明恵上人と尊徳翁、仏道と故道(令和2年5月20日)

書棚の上に置きっぱなしの「華厳の思想」(鎌田茂雄著、講談社学術文庫)が気になったので手に取りパっと開いてみた。鎌倉時代の僧・明恵上人(承安3年・1173~寛喜4年・1232)のことが書いてある。父は豪族の平重国で、武士の血が流れている。後鳥羽院より華厳宗興隆のためとがの尾の地を賜り、高山寺を中心に活躍した。23才にして、俗化した仏僧界を逃れ紀伊の白上峯という景勝の地で座禅行法にうちこんだ。座禅は臨済宗の祖・栄西に学んだという。40才の時、念仏を唱えれば極楽に行けるという浄土思想を批判。学問よりも観法(実践)を修し、また華厳の観法と密教の行法とをアウフヘーベン(止揚)した。この観法は、二宮尊徳翁の 道歌『音もなく香もなく常に天地(あめつち)は書かざる経を繰り返しつつ』を想起させる。自分で見て自ら気づく、ということである。明恵の一生は、釈迦の仏教の生命に迫ろうとした求道の道であった。「高山寺明恵上人行状」には、『昼夜朝暮二只仏像二向テ在世ノ昔ヲ恋慕シ、聖教二対シテ説法ノ古ヲウラヤム』と記されている。つまり、朝から晩までただ仏像に向かってお釈迦様がおられた昔の世の中を恋い慕い、お釈迦様が実際に教えを説法された昔というものを強くうらやましいと思って、そして寝食を忘れて座禅・誦経・学問を勧められた、という意味であるが、ここでもまた、尊徳翁の道歌『故道に積る木の葉を掻き分けて天照神の足跡をみむ』との親和を感じた次第である。お二人の間には、700年の歳月の隔たりがあるのだが...。
グスタフ・マーラーⅡ(5月19日)

晩年のマーラー

マーラーは、いわゆる世紀末の作曲家である。日本でいうと万延元年(1860)にボヘミアに生まれ、明治44年(1911)ウイーンで亡くなった。ウイーン音楽院に学び、指揮者としての活動で生計を立てながら夏休み期間中に作曲をした。日曜大工ならぬ日曜作曲家と呼ばれた。オペラは書かなかったが、交響曲を10曲と歌曲集を幾つか遺している。ドイツ語文化圏に属する芸術家である。本をよく読み、インテリだった。作曲家としての原点は、23才の時にバイロイトでヴァーグナーの最後のオペラ「パルジファル」を聴いたことだった。37歳にしてウイーン国立歌劇場の総監督となり1907年まで10年間務めた。その職に就くために、ユダヤ教からカソリックに改宗した。ドイツに駐在していた折、マーラー縁の地を訪ねる機会に恵まれた。1985年には、マーラーの命日である5月18日にウイーンに出張があり、お墓参りをした後、夕刻亡くなった病院まで行ってみた。夫人のアルマの手記に書いてあった通りの悪天候(雷交じりの嵐)となり、びっくりした。
グスタフ・マーラー(令和2年5月18日)

28才のマーラー

今から47年前の昭和48年(1973)、大学の卒論に取り組んでいた。テーマはドイツの作曲家グスタフ・マーラーだった。ゼミはドイツ文学だったが、指導教授の八木浩先生が「音楽でもいいよ」との一言があったのだ。先生自身「リヒャルト・シュトラウス」の訳書があった。当時、マーラーについての日本語文献がなく、大阪梅田の丸善に原書を注文、届くまで3か月を要した。ラジオ技術という雑誌に音楽評論家の吉田秀和先生がマーラーについての評論を連載を始められたばかりで、そのことは三ノ宮の書店で知った。「卒論でマーラーをやっております」旨記して年賀状をお送りしたところ、「どの部分に重点をおいていますか?頑張ってください」とのはがきを頂戴した。日本語で原稿用紙49枚、ドイツ語はオリベッティのタイプライターで20枚にまとめた。奈良の菖蒲池の下宿でレコードを聴きながら、原書を読みながら悪戦苦闘した。今から思うと、物質の世界とは違う価値空間に関わる機会があったことはよかったなあ、と思う。現在、アートフォースM&Kという屋号でアート展の企画・運営の仕事をしているが、アートフォース(artforce)とは、美の力、まさに目に見えないもに価値を見出す、という意味なので、素朴な感慨を覚えている次第である。ちなみに、八木先生からは『いろいろな思想家の暗示をたどり 予感的に対象に接近して エッセイ風にまとめるのに成功した、よい論文である。』との評をいただいた。今日はグスタフ・マーラーの命日である。
明治天皇と日露大戦争(令和2年5月17日)

対露宣戦布告前の御前会議、新東宝映画より

島倉千代子さんの「東京だョ、お母さん」をyoutubeで観覧中に、ガイド覧に何故か映画「明治天皇と日露大戦争」が案内されていた。制昨年を見ると、昭和32年、「東京だョ、お母さん」と同年であった。サンフランシスコ平和条約発効から3年経った昭和30年位からこれまでの来し方を振り返る気運が醸成されていた頃だったのだろうか?我が国が敗戦の焼け跡から立ち上がり、復興の槌音が全国で響いていたという時代背景があったのだろう。 
東京だョおっ母さんⅡ(令和2年5月17日)

某自衛隊基地で歌う島倉千代子さん(Youtubeより)

紅白歌合戦に35回の出演を果たした島倉千代子さんだったが、その代表作であるこの曲は遂に歌わせてもらえなかったようである。しかし、全国の自衛隊基地に巡演した際には、必ずこの曲を歌った。それは御国のために散華された英霊の御魂に捧げられた絶唱であったろう。聴いていて目頭が熱くなり涙が滲む。美空ひばりさんの歌声も素晴らしいが、より近く日本民族霊に寄り添う声だ。
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