文化・芸術イベントやアート・絵画イベントの企画・運営ならアートフォースM&Kにお任せください。日本を 

サイト内検索 ホームページ制作・スマホサイト制作・CMS サイト管理画面

ブログ

32/137ページ 全部で682件中 156-160件を表示
ベルリンの壁崩壊記念コンサート(12月17日)

1989年8月にパリに赴任した。三ヵ月の単身生活を経て家族(妻と長男)を呼び寄せた頃、ベルリンの壁が崩壊した。その記念コンサートがバーンスタイン指揮の下、バイエルン放送交響楽団を核に世界から集まった演奏家による臨時結成のオケがベートーヴェンの「第九」をベルリンで演奏した。詩と音楽の融合として、ヴァーグナーの楽劇の創出にも影響を与えたエポックメーキングな作品である。その第四楽章にはシラーの詩「歓喜に寄せる讃歌」(Ode an die Freude)が採用されているが、その原題は実は「自由に寄せる讃歌」(Ode an die Freiheit)であった。これ以上に相応しい作品はあるまい。12月25日だった。行きつけのヴァージン・レコードというショップは巨大な旧銀行の建物を再利用しており、シャンゼリゼ通りにあった。上記の歴史的演奏を収録したCDのケースの一角にはベルリンの壁の小さな破片が入っていた。
ベートーヴェン生誕250周年(12月16日)

33才の頃(1803年)の肖像画

250年前の今日か翌日、ベートーヴェンがボン(ドイツ)に生まれた。42年前になるが、Y社の駐在員としてハンブルク(当時は西ドイツ)に赴任。出張や夏休みなどでライン河畔のこの町を2回ほど訪れたことがある。ベートーヴェンの生家は記念館になっていて、その同じ並びの目と鼻の先にのちに楽聖となるルードウィッヒが(12月17日に)洗礼を受けたレミギウス教会がある。17才の時にヴィーンに旅をし(死の2年前の)モーツアルトに会っている。その5年後にヴィーンに移住し、人生のほとんどが旅の途上であった(auf der Reise)モーツァルトと異なり、この町で活動しこの町で56年余の人生を終えた。作品数においてはモーツァルトの626曲にはるかに及ばないが、より多くの聴衆に聴かれる名曲を数多く作曲した。その中でも「交響曲第九番」は人類史に残るほどの名曲中の名曲であり、(ヴァーグナーの楽劇を専門に上演する)バイロイト音楽祭でも初日に演奏され敬意が払われている。日本ではこの時期全国いたるところでこの曲が演奏されているが、今年は中国武漢市発のウイルス蔓延を警戒して自粛となっている。
12月8日という日(令和2年12月8日)

横尾忠則作のポスター「ジョン・レノン」(筆者所蔵)

79年前の今日、大日本帝国海軍は米国太平洋艦隊が駐留する真珠湾を攻撃した。大東亜戦争の勃発である。その歴史的なことの報道が何故か見受けられなかった。産経新聞の産経抄でもそのことには一切触れず、40年前のこの日、ニューヨークの自宅前で銃撃されたジョン・レノンについての記述に絞っていた。「イマジン」という曲が生まれたいきさつについてである。曰く、外交評論家の加瀬英明氏はジョン・レノンと結婚したオノ・ヨーコさんの従兄妹で、ジョン・レノンと会った時、神道についてレクチャーをしたとのこと。それが「イマジン」という曲の詞の素地になっているという訳だ。「和の國」日本の神道に学び平和を訴える姿勢はいいのだろうが、松下幸之助が唱えたPHP(Peace and happiness through Prosperity)の理念に「戦う」ことが欠けているように、ジョン・レノンの詞にもそれが欠けている。おまけに、「no countries」を希求してもいる。根無し草である。神道を生かじりして消化不良を起こしている感じだ。


巨星逝く(令和2年12月7日)

浜松市美術館にて、右から三番目が有馬先生、中央が中村雄次氏、左端が筆者

原子核物理学の権威で文化勲章を受章し、参議院議員任期中に文部大臣を務めた政治家でもあった有馬朗人氏が、今日東京のご自宅で亡くなられた。昭和5年(西紀1930)のお生まれ(大阪市)なので享年90歳。幼少の頃より高校(旧制浜松第一中学)を出る(四修、つまり5年のところを飛び級で4年で終了)まで浜松で過ごされたので、遠州人であった。
  専門の物理学分野での業績でよりも俳句の世界で認められたことに誇りを感じていらした節がある。天才数学者・岡潔先生が蕉風俳句の研究を通じて数学の難問を解けるようになったように、有馬先生の場合も15歳頃より俳句を創ることによって「心の律動」を育み物理学の世界に於いて金字塔を打ち立てられたのではないだろうか。毎年秋に浜松市北区引佐の奥山方広寺で「観月の会」という句会を催された風流人でもあった。
  氏の浜松一中時代の同窓の中村雄次氏(元浜松酒造株式会社社長)のご紹介をきっかけに3度ほどお目にかかる機会があった。静岡市での 「富国有德塾」に参加の折には有馬先生による講演を拝聴する恩恵に浴した。演題は「詩文学の東西比較文化論」であった。知的探求心の旺盛さを感じさせるレジュメの厚さだった。その時に漏らされた日本武尊の事績についての疑問に対するヒントを持って静岡文化芸術大学(浜松市中区)の理事長室を訪ねたのが一昨年の秋、先ほどの中村氏にご同行を賜った上での面談実現であった。有馬先生は私の説明に「なるほど」と頷かれ謝意を表された。直截で謙虚なお方だった。その席では、松尾芭蕉の静岡における事績について疑問を呈されたが、それに対する報告をお持ち出来なかったのが心残りである。
   そして、別次元でもっと残念なことは、有馬先生が先月出た週刊新潮で例の学術会議がらみで書き立てられていたことである。井上科学技術庁長官が同会議の?会長に、学術会議の組織を国から切り離す方向で検討すべしと言い渡されたのと同タイミングでの有馬先生のご逝去であった。心よりご冥福をお祈りいたします。
二宮尊徳翁の死(12月4日)

農政家・二宮尊徳翁がその70年の生涯を閉じたのは、安政二年(西紀1856)十月二十日、新暦では今年の場合12月4日である。2年前の嘉永6年4月に病に罹りながらも幕府より命じられた日光神領の興復の仕事に邁進した。その年の7月に長女・文子が他界。
32/137ページ 全部で682件中 156-160件を表示