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戦艦伊勢(6月24日)

上田毅八郎画「戦艦伊勢」 改装前の姿

「上田毅八郎・艦船画集」(平成14年コーエー社刊)の表紙を飾っているのは、戦艦大和ではなく、戦艦伊勢である。日本で最初に建造された戦艦であった、という理由ではないかと推測する。日本海海戦の旗艦であった戦艦三笠は英国に発注したものであったし、大正2年(1913年)に竣工した戦艦金剛が最後の外国製であった。伊勢という艦名は伊勢神宮に因んだものである。
海洋船舶画家・上田毅八郎氏逝く(6月23日)

上田毅八郎画「戦艦伊勢」 大正6年(1917)建造、昭和18年(1943)航空戦艦に改装。イラストは改装後のもの。全長約220m,速力約25ノット。戦艦大和の仕様に準じる。

今月18日に亡くなった由、その訃報には今日の昼過ぎに接したばかりである。氏には十数年前に私の企画で21世紀倶楽部(静岡新聞社主催)の月例会で講演をしていただいたことがある。ご自宅にも数度お邪魔したり、浜松市(アートボックス)や磐田市(アミューズ豊田)、藤枝市(郷土文学館)、そして静岡市(護国神社)での個展で作品を見させていただいた。氏の画才は、尋常小学校に通っていた頃からだろうか、少年雑誌に載った戦艦や飛行機の模写に勤しむことで芽生え、育まれた。家業が筆で描くことを生業とする塗装業であったということも良い環境であったろう。親の背を見て育つ。遠州に因めば、車大工を親に持った河合小市(発明小市と謳われ、河合楽器製作所を創業)や鈴木道雄(織機を改良、スズキを創業)もそうであった。昭和19年、大東亜戦争中最後に(高射砲員として)乗船した輸送船・金華丸が被撃沈、利き腕の右腕に重傷を負うという大試練に見舞われた。昭和17年3月に帝国陸軍のジャワ上陸作戦以来6回の被撃沈に遭遇したが、6回とも生還したという強運の持ち主であったが、戦後は左腕で画業に刻苦勉励、見事に困難を克服した。氏はタミヤのウオーターラインシリーズに数多くの戦艦の絵を提供、その精緻で躍動感あふれる筆致で人気を博した。亨年95歳。戦前の美しい日本のこころを持ち続け自ら人生訓を編み出されもした。謹んでご冥福をお祈りいたします。
鷹野つぎ、ふるさとを偲ぶ(5月29日)

浜松市立高校の校門近くに設置の石碑

”大和は国のまほろば たたなずく青垣 やまごもれる大和し 美わし” これは有名な古代の英雄・日本武尊の國偲びの歌である。ご東征のあと、もうすぐ大和だという地点で病を得たときに詠んだ歌とされている。命を終えようとするとき、走馬灯のように生まれ育った故郷のさまざまなことが思いだされるのであろう。時代と身分は異なるものの、今回の肖像画展に展示されている浜松の女流作家・鷹野つぎ(明治23年/1890年-昭和18年/1943年)も同様の歌を詠んでいる。島崎藤村創刊の「処女地」同人であった。

ふるさとよはままつ
はままつは わがふるさと
したはしき母かも
呼ぶにも似たる
なつかしのはままつ
思ひは馳する
わがふるさと

鷹野つぎは、浜松高等女学校の卒業である。現在の浜松市立高校の庭にこの歌が刻まれている。(写真)
54歳の若さで亡くなったが、大東亜戦争の戦況を心配する歌が辞世だろうか?
”またとなき おほき戦さの 行く先も
明らめもせで われは逝くなり”
ふるさと浜松から遠く離れた東京の江古田(練馬区)で亡くなったという。


”今から450年以上も昔の引佐の地。
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