文化・芸術イベントやアート・絵画イベントの企画・運営ならアートフォースM&Kにお任せください。日本を 

サイト内検索 ホームページ制作・スマホサイト制作・CMS サイト管理画面

ブログ

4/104ページ 全部で519件中 16-20件を表示
愛媛県立松山東高等学校校歌(10月18日)

我が母校・松山東高校新校舎、正門左手に安部能成の胸像がある

母校・松山東高校は伊予松山藩の藩校を源とし、松山中学となった明治11年(1878)を創立年とする。戦後数年間松山商業高校と統合されていたが、それが解消された昭和28年(1953)に今の校歌が制定された。今日そのことを知った次第である。作詞は、松山中学の卒業生で美術エッセイスト・画商の洲之内徹(1913-1987)、作曲は近衛文麿元首相の異母弟で作曲家・指揮者の近衛秀麿だった。洲之内徹は小林秀雄や白洲正子らからその評論家としての文才を称賛されていた。作曲の方は、同じく松山中学の卒業で学習院院長を当時務めていた安部能成(1883-1973)からの依頼であったろうと推測できる。

愛媛県立松山東高等学校校歌

                     州之内徹 作詞         近衛秀麿 作曲 

眉きよらかに 頬はあつく

いのちまた 燃えたり かかる日の

かかる朝なり 青雲の思ひ

流れやまず 流れやまず

茜明けゆく そらのはたて

 

学舎(まなびや)の庭 春たけたり

千筋なす 青柳 風吹かば

掛けしたて琴 弦(いと)のひびき

鳴りわたりぬ 鳴りわたりぬ

いのち秘めにし 若き調

 

誇はたかく 夢はふかく

われらここに集ふ ここにして

唇(くち)に歌あり ここにありて

日は美(うる)はし 日は美はし

光もとめて 生くる月日

浜名高等学校校歌(10月17日)

三好達治が浜名高等学校の校歌を作詞していたことをひょんなことで知った。この高校はあの「遠州の渋沢栄一」平野又十郎(1853-1928)が貴布祢(浜松市浜北区)に創立した裁縫学校の後進である。卒業生(1945~ )によると、当時の担任の先生が三好達治との渉外の窓口になり、三好達治は岩水寺の境内の旅館に泊まって作詞したという。大和言葉が五七調の韻律で編まれた美しい詞である。

作詞 三好達治  作曲 諸井三郎


遠とふみ 遠の湖ばら

水清ら 四時に平らに

天つ空 四方の山影

いれたたえ さやけ ゆかしき

湖の名を 負える学び舎


吹く風は 窓に軽らに

とよもほす 沖の潮風

さなり聴け 清ら野の子ら

よき人の 遠き言の葉

よき書を 読むにさながら


さながらや 移らふ夢に

天龍の 青きこの岸

たもとほり いゆきなづさひ

惜しみてん 二つなき日を

逝くものは 舎かず日と夜を


志 はるかなれこそ

若き日を かくこそ惜しめ

遠江 遠の大野を

見はるかす 群山のうへ

いや清ら 富士の高嶺は

明智光秀の遺作③(10月16日)

明智光秀の家紋、水色桔梗

京都の北西で光秀主催の連歌会が催されたのは天正10年5月28日。宮崎正弘氏の書はまた次の様に続く。~「久米歌」の項でも、「荒ぶる神等を言向け平和し、伏はぬ人等を退け撥ひて、畝火の白檮原宮に坐して天の下、治らしめしき」 以下、綏靖天皇の項。「葛城の高岡宮に坐して,天の下治らしめしき」。安寧天皇。「大倭日子祖友命は、天の下治らしめしき」。懿徳天皇。「境岡宮に坐して、天の下治らしめしき」そして雄略天皇、崇峻天皇、推古天皇にいたる万世一系の系譜の表現は全てが「天の下治らしめる」とされているのである。~ 五月かな、という結語は確かに五月雨のことであろうが、「天」を「雨」と読み換える如きは小学生のレベルだと宮崎氏は喝破しておられる。~ 弓削道鏡の不正義を糺したのは和気清麻呂だった。.....遣唐使を廃止を建言したのは菅原道真だった。ならば光秀がなすべきは何か。光秀に取り憑いたのは日本の歴史を貫いた正気だったのである。狂気の正気、日本の歴史では変革期に必ず現れる思想といってもいい。本能寺の変以後も大塩平八郎、吉田松陰、西郷隆盛に取り憑いた。やがて大東亜戦争では特攻隊に象徴された死を恐れぬ行為!
後に吉田松陰に甚大な影響を受けたサムライがでた。...日本人の多くは乃木将軍を尊敬している。乃木神社総代会編『かたくなにみやびたるひと 乃木希典』(展転社)は「みやび」の意味を「宮び」に求め、清水文雄がジョホール・バルにて終戦直後に自決した蓮田善明を評して「みやびが敵を討つ」の譬喩を蘇らせている。清水と蓮田はのちの三島由紀夫に甚大な影響を与えた。「みやび」とは「皇神の御心と手ぶり」、つまり「みやびは国民の心に滲み透って血肉となって生きている」と前掲書は言う。~



明智光秀の遺作②(令和2年10月15日)

愛宕山、山頂に愛宕神社が鎮座

越中時代の大伴家持が詠んだ長歌には、古事記からの引用があった。冒頭の「葦原の 瑞穂の国を 天下り 知らし召しける」である。以下ふたたび宮崎正弘氏の著書より。~天下り 知らし召しける、とは天皇が統治するという意味で,『古事記』に頻出する。「天が下しる」と光秀が詠んだ本歌である。近代の歴史学者は驚くべきことに日本史最古の歴史書である『古事記』を軽視している。光秀の「天の下知る」の原典は古事記である。
まずは『古事記』上巻「天照大御神と大国主命」をご覧あれ。「この豊蘆原の千秋の長五百秋の瑞穂の国」とあって「我が御子の知らす国と、言依さし賜へる国なり」と明記してある。そして中巻冒頭「神武天皇」の項目では「天の下の政を平らけく聞こし看さむ。なほ東に行かむと思ふとのりたまふ」。つまり神武東征は,天の下の知らす(統治)を徹底させるため、と書かれている。
明智光秀の遺作(令和2年10月14日)

明智光秀の肖像画、本德寺蔵

「ときはいま 天が下しる 五月かな」これは、天正10年(西1582)6月2日)午前4時に決行された本能寺の変の5日前に京都北部にある愛宕神社で催された連歌会での明智光秀による発句であり、遺作となっている。愛宕百韻と呼ばれ、光秀を含め9名が参加している。最後は光秀の長男・光慶による「国々は猶のどかなるころ」という句で結ばれている。光秀の遺作の解釈は、これまで①信長から天下を奪い取る、という野望説 ②光秀を使って自分の野望を達成しようとした黒幕説 などが主流であったが、全く新しい説が出現した。
平成の御代がまさに終わりを告げようとした昨年の春、徳間書店から「明智光秀 五百年の孤独」という本が世に出た。著者は日本文化チャンネル桜のキャスターを務めておられる宮崎正弘氏である。以下,同書より~戦国と雖も知識人は当時必ず読んでいた書物がある。『万葉集』『古今和歌集』『新古今和歌集』は当然の教養書であり、加えて『太平記』を読むのは知識人の常識だった。この列に『神皇正統記』と『愚管抄』が加わる。~ 江戸時代後期の農政家・二宮尊徳の勤労・分度・推譲の三訓が「至誠」を本(もと)とするように、光秀の遺作もまたその本となったであろう上記の教養書を読んでいなければ正しい解釈は出来ない。「本歌取り」が連綿と続く日本的手法なのである。
4/104ページ 全部で519件中 16-20件を表示