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だから今こそ憲法改正を(6月22日)

オピニオン誌Will保存版 令和2年3月

平成25年以降令和2年2月号までにWill誌に掲載された論文をまとめたもので、以下目次より~①黙って死ねというのかー日本国憲法は玉砕憲法だ ; 江川達也 ②日本よ、完全自立への道標;石原慎太郎 ③「憲法廃棄」こそ日本再興の早道 ④腰抜け憲法だからナメられる;田母神俊雄 西村慎吾 ⑤コロナウイルス対策もできない現行憲法;百地章 ⑥九条という岩盤に風穴を;桜井よし子 田久保忠衛
⑦憲法改正・核保有で最強の日米同盟に;藤井厳喜 飯柴智亮 ⑧九条は戦争の招き猫;ケント・ギルバート 高山正之
鷹見泉石像(6月17日)

「鷹見泉石像」渡辺崋山作、絹本着色、国宝

作者の渡辺崋山(寛政5年,1793~天保12年,1841)は、三河國田原藩の藩士の子で江戸に生まれた。父親の禄は僅小で、崋山は極貧の中で絵を描きそれを売って生計を支えたという。剣術にも秀でていたのであろう、運筆に一切の迷いがない。背景を描かない空間処理の巧さは宮本武蔵(二天)の傑作「古木鳴鵙図」を連想させる。西洋画の陰影法を取り入れてあると言われているが、一体崋山は当時のどの西洋画をみたというのであろうか?鷹見泉石(天明5年,1785~安政5年,1858)は、儒学者で幕府の能吏であって、あの大塩平八郎の乱を制圧した人物である。その怜悧な人間性を見事に崋山は「写して」いる。「源頼朝像」に比肩する凛とした空気感、品位と精神性の高さがひしひしと伝わってくる。泉石53歳の像で、崋山はその時44歳。蛮社の獄のきっかけとなったモリソン号事件の年である。愛知県の田原博物館でこの作品を見えるかと思いきや、「佐藤一斉像」と共に東京国立近代美術館の蔵という。
浜松報徳館(6月13日)

浜松東照宮(中区元城町)の鳥居を出て直進30m位右手に浜松報徳館がある。明治18年に遠州の報徳運動の拠点として建てられた建物は戦災で焼け、昭和25年に再建された。幾つかの変遷を経て現在は、大日本報徳社(掛川市)のの分館として位置付けられている。50年前から西遠連合報徳社として毎月第二土曜日に常会が開かれているが、武漢発の新型コロナウイルス感染防止のため、4月、5月の常会は中止となった。今日は、本来4月に行われるはずだた「先賢物故者慰霊祭」が神官をお迎えして執り行われた。祭壇に神饌をお供えし、修祓・祝詞奏上・献餞など粛々と進行した。岡田佐平治、岡田良一郎、小野江善六ら、報徳運動の振興に貢献された先賢の名前が祭文の中で読み上げられ顕彰された。
五か条の御誓文(6月10日)

以下、尋常小學國史(昭和11年、文部省刊)より~天皇は、維新の政治を盛にして萬民を安らかにさせたいとの大御心から、明治元年三月、紫宸殿にお出ましになり、文武の百官をひきゐて、御みづから新政の御方針を天地の神々にお誓ひになり、それと同時に、これを國民にお示しになった。それは、
一、廣く會議を興し、萬機公論に決すべし。
(広く人材を求めて会議を開き議論を行い、大切なことはすべて公正な意見によって決めましょう。)
一、上下心を一にして、盛に經綸を行ふべし。
(身分の上下を問わず、心を一にして積極的に国を治め整えましょう。)
一、官武一途庶民に至るまで、各々其の志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す。
(文官や武官はいうまでもなく一般の国民も、それぞれ自分の職責を果たし、各自の志す所を達成できるように、
人々に希望を失わせないことが肝要です。)
一、舊來の陋習を破り、天地の公道に基づくべし。
(これまでの悪い習慣を捨てて、何ごとも普遍的な道理に基づいて行いましょう。)
一、智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。
(知識を世界に求めて天皇を中心とするうるわしい国柄や伝統を大切にして、大いに国を発展させましょう。)

との五箇条條であって、世にこれを五箇條の御誓文と申しあげる。そこで大政の基がいよいよきまった。

中学校で習ったが、昭和20年までは小学校で教わっていたのだ。戦後は愚民化教育というか、英才・リーダーを育てることを
放棄し、学制の改変、漢字・仮名づかいの略体化が推し進められた。











大日本帝国憲法(6月6日)

いわゆる「長州五傑」の一人で初代内閣総理大臣を務めた伊藤博文は、ほかの誰よりも「洋行」を重ねた。一回目は文久三年(1863),
その年の始めに師の吉田松陰の転葬を高杉晋作の名代で果たした後だった。横浜を出港、上海経由でロンドンに渡った。その時はわずか一年の滞在だった。二回目は明治4年(1871)、岩倉遣欧使節団の一員として、3回目は明治15年(1883)、憲法事情調査の為だった。随行員に後の元老・西園寺公望がいた。ベルリンでは成果なく、北ドイツ生まれの法学者で当時ヴィーン大学に奉職していたローレンツ・フォン・シュタイン教授からドイツ憲法を参考にすべし、との助言をもらった。大日本帝国憲法は、明治22年(1889)2月11日に公布されたが、内容的には井上毅の意向(フォン・シュタイン教授の提唱する法制の考え方に反対の立場)が反映されたという。井上毅は二宮金治郎(尊徳)の生涯・業績・思想を記した「報徳記」(富田高慶著)を熟読し、死の病に臥せっていた時にも妻に読ませ病苦を和らげていたという人物である。

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