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音楽評論家・吉田秀和氏の訃報に接して(5月25日)

音楽評論家の吉田秀和氏が亡くなった。22日だったという。不思議なものだ。ちょうどその頃だっただろうか、ある本屋で超久しぶりに「レコード芸術」を手にとり、氏の批評文を眼にした。ご健在なんだなあ、と感慨を覚えた。ベートーヴェンの交響曲第五番やジュコメッテイの彫刻のように、無駄なものをそぎ落とし、直截な表現が際立っていらした、高く聳え立つ名文筆家であった。ガ~ンと脳天に稲妻を受けたような衝撃をその文章から始めて受けたのは、あれは昭和48年(西暦1973年)の暮れだったろうか、場所は三ノ宮の駅ビルにある本屋だった。「ラジオ技術」誌に吉田秀和氏の「グスタフ・マーラー」の連載第一回目が載っていたのだ。Erwin Ratzというドイツの音楽学者の”Gustav Mahler"を引用しながら巧みに論旨が展開されていた。ちょうど卒業論文で「グスタフ・マーラー」をテーマにしていたので、その文章の凄さを実感した。こわいもの知らずで、年賀状を書いたところ、何と踊るような勢いのある筆跡で奈良の下宿に返事が届いた。ビックリした。氏の姿を初めて近くで観たのは、氏が館長を務めることになった水戸芸術館のこけら落としコンサートの会場だった。当時の佐川・水戸市長から招待券をいただく巡り合わせがあり、ちょうどパリから帰国した翌日だったので、ラッキーなことにその恩恵に浴することができた。ハイドンのチェロ協奏曲だったが、小澤征爾指揮・水戸室内管弦楽団の演奏だった。独奏は堤剛だったか?その演奏が始まる前に客席から吉田秀和氏が舞台の上に上がられ館長としてのあいさつをされた。力のこもった実に勢いのある話しぶりだった。多くの人材を育て、啓蒙の文章を綴り続けた人生だっただろうか。ご冥福をお祈りいたします。
二宮尊親(2月18日)

興復社二宮農場の創設者二宮尊親は、二宮尊徳の孫として、安政2年11月16日、現在の栃木県今市市に誕生。明治29年興復社再建のために北海道開拓を決意し、社員等4名とともに渡道。明治30年牛首別興復社の設立認可を受け、3月3日第一期移住民15戸を引率し、4月8日牛首別原野に到着。この年郷里から家族を呼び寄せ、茂岩に居住することとなった。以来明治31年第二期入植者23戸、明治32年第三期入植者14戸、明治33年51戸、明治34年14戸と続いて入植し、尊親自ら陣頭に立って寝食を忘れて指導に当たった。明治40年入植以来10年にして開拓の方向も定まり、各農家も経営の安定を見るに至ったので、福島県中村に転住。その後は年に数回実情の把握および指導のため現地入りしたのである。この間、十勝にあっては農会長、学事会員、その他の公職に推され、依田勉三、関寛斎らが尊親を訪れたこともあった。郷里に帰った後も、尊徳遺稿一万冊の整理、「二宮尊徳遺稿」の編集著作に専心する傍ら、農業関係、金融関係、教育関係の公職及び実務に当たり、現西宮市報徳学園の二代目校長などを務め、大正11年11月東京において68歳で病死した。
亀之丞の隠れ岩(2月12日)

井伊家23代の直親がまだ9歳の時(幼名=亀之丞)、父の直満が今川に殺された。龍譚寺の縁のある信濃の松源寺まで逃げた時、井伊谷からまず渋川へ向かう山道(蓬莱寺海道)の峠にある大岩で追手の目から逃れ一夜を過ごしたという。井伊谷から約8Kmの地点にある。最近になって標識も整備された。
初日の出

夜が明け、朝日が昇った。瑞々しく、新しい命漲る太陽のまばゆい光である。平成29年、皇紀2667年、西暦2017年が明けた。

和ごころ講演会(9月23日)

白駒妃登美先生

今夕6時過ぎにしのつく雨の中を浜松駅前のアクト・コングレスセンターに向かった。「日本をよくする静岡県民の会」主催の講演会だ。講師は歴史評論家の白駒日登美先生、才色兼備である。

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