文化・芸術イベントやアート・絵画イベントの企画・運営ならアートフォースM&Kにお任せください。日本を 

サイト内検索 ホームページ制作・スマホサイト制作・CMS サイト管理画面

ブログ

50/77ページ 全部で384件中 246-250件を表示
唱歌 ふるさと①(6月7日)

一昨日(6月5日)、東京で「拉致被害者救出国民大集会」が開催された。集会のあと、都内をデモ行進があったが、シュプレヒコールばかりでなく、歌も歌いながらのデモ行進であった。大正3年(1914年)に尋常小学校唱歌となった「ふるさと」であった。何の罪もない大勢の方が北朝鮮に拉致され、今もなお遠く離れた家族を恋焦がれ、ふるさと・日本に帰る日を待ち望んでいる。ご家族も一刻も早い救出を切に願っているが、事態は一向に進展しない。明らかな国家主権侵害であるのに、日本は”力”を行使できないでいる。私達の命、財産を外的から守ってくれる国というものが溶解してしまっているようだ。そもそも国防力が弱まり、北朝鮮につけ込まれ始めたのは福田内閣のときであった。小泉元首相の恩師・福田赴夫首相は、”人の命は地球よりも重い”という名文句をのたまわってよど号ハイジャック犯と”取り引き”をしてしまった。同じような状況でも、
西ドイツの対応の仕方は違った。特殊部隊を使ってテロリスト達を射殺したのだ。国としての毅然たる対応であった。日本の場合は、一度の譲歩がその後の悲劇・惨劇を生む温床となったのだ。
この歌を日本語で歌い、東日本大震災の被災地への熱い靱帯を表現したスペイン人歌手がいる。世界の三大テノール歌手のひとり
プラシド・ドミンゴ氏である。

家族の絆(6月6日)

万葉集の中の東歌のひとつ、4322番の和歌は筑紫に派遣された防人が故郷に残してきた妻を偲ぶ歌である。
 ”わが妻は いたく恋らし 飲む水に 影さへ見へて 世に忘られず”(詠み人:若倭部身麻呂)
私の妻は私のことを恋こがれているようだ。飲む水にもその姿が写り、忘れることも出来ない)
家族同士が離れて暮らすことは、忍びがたいことである。家族の情、絆というものは、時代が変わり、国をまたいでも変わることはない。家族と引き裂かれて長き年月を北朝鮮という異形の国で過ごしている横田めぐみさんら拉致被害者を我々日本人は未だに連れ戻すことが出来ないでいる。自民党から民主党に政権が変わっても何も変わらない。拉致は明らかな国家主権の侵害であるから、それに抗するにはまず自主防衛の方向性をしっかりと打立てることの出来る政権が生まれなくてはならない。

今は浜松市に組み込まれたが、かつての浜北市の時代に「万葉の森」という日本でも類まれな文化施設が出来た。日本でも有数の植木産業を誇る浜北らしく、万葉の和歌に詠まれた花や木を庭園内に栽培し、その前に和歌を刻んだパネルを
配している。毎年10月には庭園内を優雅に流れる曲水の周りで和歌の朗詠会が開催される。研の究グループによる万葉食の提供(予約制)もあるという、こだわりの万葉世界の体験スポットと呼べるかと思う。上記の万葉和歌を刻んだ大きな石碑がその山門を入ってすぐのところにある。もちろん万葉仮名である。

マーラーの使徒(6月5日)

静フィルによる「復活」コンサートのチケット

電気録音が始まったのは1927年、昭和2年のことだった。カール・シューリヒト指揮のブルックナー「交響曲第7番」がその世界初の快挙の栄を得た。日本では、1930年(昭和5年)、近衛秀麿指揮/新交響楽団によるマーラー「交響曲第4番」が世界初の電気式で録音された。生前は自身が作曲した作品に対して無理解や不評にさらされたマーラーは、”やがてきっと私の時代が来る”(Meine Zeit wied noch kommen)とよく言っていたという。マーラーの信奉者であったヴァルター(1876-1962)やクレンペラー(1885-1973)、そしてホーレンシュタイン(1898-1973)といったユダヤ系の指揮者が”使徒"となってその普及に努めた。録音技術の進歩は普及のための福音であった。日本でのマーラー普及に貢献したのは東京音楽学校(東京芸術大学音楽学部の前身)の教授としてやってきた(1936年/昭和11年)ローゼンシュトックであった。戦前は内地ばかりでなく満州にもハルビン交響楽団というのがあり、マーラーの交響曲が演奏されたと文芸評論家の河上徹太郎が書き記している。戦後はヴァルターからバーンスタイン(1918-1990)へ、さらに小澤征爾(1935-    )へとバトンはリレーされた。昨夜静岡市で「交響曲第2番」を指揮しマーラーの演奏史に印象深い一頁をしるした黒岩英臣(1942-    )もその系譜に連なるに違いない。そして、音楽を通じて東日本大震災の被災者の方々へエールを送ったという意味では、3月下旬にデユッセルドルフでベートーヴェンの「第九」を指揮した佐渡裕と目に見えない連携の関係にあったのだと思う。佐渡氏は大震災の後に”歓喜に寄せて”(An die Freude)を歌うのに気が引けていたようであるが、シラーによるこの詩の原題は、"自由に寄せて”(An die Freiheit)であったのだから、1989年ベルリンの壁崩壊の後ベルリンで「第九」を指揮した師バーンスタインがそうしたように、FreudeをFreiheitに置き換えればよかったのではないか、と余計なことを思ったりもした。

マーラー「復活」シンフォニー(6月4日)

マーラー「交響曲第2番」の総普表紙

久しぶりにコンサートに出かけた。マーラーの交響曲第2番「復活」である。故斉藤秀雄門下の黒岩英臣指揮による”手に汗握る”素晴らしい演奏だった。静岡市民文化会館の大ホールを埋め尽くした聴衆を深い感動に導き、終演後の会場は興奮の坩堝と化した。掛け値なしに拍手大喝采を浴びたのである。マーラーのこの曲を生演奏で聴くのは今回で4度目(であったが、今日ほどこの作品の全体像を感動・感銘とともに感じ取れたことはなかった。黒澤明監督が”映画は劇場でみなくちゃ..."ということばを遺しているが、大編成のマーラーの曲もしかりだ。浜松から車で出かけたのであるが、昂揚した気分で帰路に着いたのであった。今年は作曲家グスタフ・マーラー(1860-1911)の没後100周年(昨年は生誕150周年)の節目の年である。それを記念してか、静岡フィルハーモニー管弦楽団が、その創立35周年記念特別演奏会の演目にこの曲を取り上げたのだ。~企画・運営:(財)静岡市文化振興財団、静岡市文化教会~ 当初プログラムにはなかったグリーグの「悲しい二つの旋律」が演奏された。会場アナウンスにより演奏終了後の拍手は控えられ、東日本大震災で犠牲になられた方々への哀悼の誠が捧げられた。次にモーツアルトの「ドン・ジョバンニ」序曲が演奏されたが、指揮者としてのマーラーは(死後100年近くも低調だった)モーツアルト演奏の復活に大いに貢献した功績があり、特に「ドン・ジョバンニ」の公演はブラームスも絶賛するほど定評があっただけに、大曲「復活シンフォニー」の前の”序奏”としても的を得た選曲であった。亡きモーツアルトも、そしてマーラーの霊もさぞかし喜ばれたことだろう。15分の休憩のあと、いよいよ「復活」である。この曲はマーラーの10曲のシンフォニーの中で、「第3番」(100分)に次ぐ長さで90分近くある。バイオリンとダブルベースの主旋律の掛け合いで緊迫感をもって始まり、聴衆が息を呑む中、黒岩氏(背格好、指揮振りがマーラーに似ている)のタクトのもと楽団員それぞれのパート、独唱者、合唱団員が一致団結して、まさしく心をひとつにしてこの難曲に挑み、大合奏フィナーレまで高度の合奏力を示したのである。この曲の”復活”という標題に、東日本大震災の”復興”を重ね合わせていたのに違いない。”ことあるとき”に日本人は”おおしさ”を示すのである。
    敷島の 大和心の おおしさは ことあるときに 現れにけり(明治天皇御製、日露戦争時)

わたつみ(6月2日)

辻井喬著「わたつみ」三部作

本日夕刻より、21世紀倶楽部主催の特別講演会が浜松駅前のプレスタワー17階で開催された。講師は、作家でセゾン文化振興財団理事長の辻井喬氏で、演題は「日本人が大切にしなければならないもの」であった。氏は昭和2年(1927年)のお生まれで現在84才、ご親交のあった故・三島由紀夫氏より2才お若い。お話は、やはり今回の東日本大震災に触れるところから始まった。混乱の中でも、東北の被災者の方々が秩序と譲り合い、助け合いの心で行動された;地方に立派な見識の政治家が多くいるのが分かった;阪神淡路大震災にと異なり、被害規模の大きさや原発事故がからんでいることから国際的な影響度が高い;米国中心のグローバリズムは消滅しつつあるが、今回の大震災を機に日本が政治、経済の両面で
米国の従属的位置に最構築される危険性がある;忍耐力や共同体意識の高さ、そして地方自治の台頭が日本の底力と
なる;日本の政党は信頼性を失い、賞味期限が終わっている。次回の選挙では、大阪や名古屋の地方政党が伸びるのではないか;中国は近代国家としては疑問符が付く;日本流の近代というものがあるのではないか?;日本のメデイアは米国のメデイアの支配下にあるなど、広範囲に亘って私見を述べられた。約200人の聴衆が熱心に聞き入っていた。氏が10年前に出版された”わだつみ三部作”を携えていったが、残念ながらサインをいただく機会がなかった。

50/77ページ 全部で384件中 246-250件を表示