文化・芸術イベントやアート・絵画イベントの企画・運営ならアートフォースM&Kにお任せください。日本を 

サイト内検索 ホームページ制作・スマホサイト制作・CMS サイト管理画面

ブログ

58/91ページ 全部で453件中 286-290件を表示
萩(9月1日)

萩の愛らしい赤い花が咲き始めた。蓮華の花によく似ている。かつて、浜松の市の花であった。萩を読み込んだ万葉の和歌があるが、そこに由来しているものと推測している。曰く”曳馬野に 匂う榛原入り乱れ 衣匂わせ 旅のしるしに” 持統天皇が行幸されるときに、ながのいみきおきまろから献上されたもののようである。この歌を彫った石碑は浜松市内数箇所にあり、かつて市役所があった利子公園には、賀茂真淵が万葉仮名で筆記したものがある。それは一般的にはなかなか読みづらいので、その脇にメタルプレートで現代読みが用意されている。浜松在住の万葉集研究家・渡水範子先生にお供して、北脇前市長にその設置を陳情した成果である。浜松文芸館にあるものは、武者小路実篤の書が基になっている。こうして眺めてみると、浜松も結構文化の香り高いものを持っている。
新興大和絵・松岡映丘展(8月29日)

新興大和絵で知られる日本画家・松岡映丘の没後130年を記念した作品展が巡回している。郷里に近い姫路展を皮切りに、島根に行ったあと、10月には東京に移動するようである。会場は、練馬区立美術館である。是非見に行きたい。以下、同美術館のホームページより ~”近代日本画の松岡映丘(まつおか えいきゅう)〔明治14年~昭和13年〕(1881-1938)は、現在の兵庫県神崎郡福崎町に生まれ、大正から昭和初期にかけて文展、帝展を中心に活躍。 日本のやまと絵の伝統を近代によみがえらせ「新興大和絵」と呼ばれる新しい表現を確立し、東京美術学校(現・東京藝術大学)教授として、橋本明治(島根県浜田市出身)など多くの文化勲章受章者を育てた教育者でもあった。源氏物語などの中世絵巻物研究を礎に、日本古典文学に登場する王朝貴族、武者などを色鮮やかに描き上げ、その優雅でロマンチックな作風がある。30年振りの大規模な回顧展となる本展は、初期から晩年までの代表作約60点や下絵約20点、スケッチ、遺品などを一堂に展覧する。”

今日は66回目の”終戦記念日”である。浜松市戦没者追悼平和祈念式典”がアクトシテイ浜松・大ホールで開催された。国歌・君が代斉唱で始まったが、そのあと東京武道館での全国戦没者追悼式典の実況放送が舞台上の大型スクリーンに映し出された。武道館での君が代斉唱には霊的な大きなうねりを感じた。日本という国の底力みたいなものをを感じた。天皇陛下のおことばはいつにもまして力のみながりを感じた。
浜松での式典のあと、10分ほど遅れて俳優の津川雅彦さんの講演会が開催された。映画「プライド」で東条英樹元首相の役を演じたお方である。
・東日本大震災の被災者の方々が失われたしまったと思われていた日本人の美徳を今回示された
 こと、その美しい心を世界に広めていかなければならない。それは、今回被災しなかった我々の役目である。
・縄文土器は世界最古である。その装飾は祈りと共に神にお供えするための美を表現したものである。1万4000年前に
 日本はそういう文化を持っていた。それが、歴史を下るにしたがって研ぎ澄まされていった。
家康公ゆかり・出世六の字穴(8月13日)

可睡斎(袋井市久能)のは、油山寺、法多山と並ぶ遠州三山のひとつで、徳川家康公ゆかりの曹洞宗の名刹である。本堂脇の階段を昇ってゆくと、小さなほら穴がある。かつて家康公はここに逃げ込んで武田の追っ手から逃れたという。標識には次のように詠ってある。”「出世六の字穴」の伝説~戦国時代、徳川家康は武田信玄との戦いにおいて遠州・森、袋井方面へと攻めてきた武田勢に追われ、この寺のほら穴に隠れて命拾いをした。その後、家康は浜松城主となり、やがて駿府城、江戸城を築いて国を平定し、江戸幕府を開いて将軍となった。その出世の故事になぞらえ、当斎のほら穴は、いつしか「出世六の字穴」とよばれるようになったという。六の字とは、六観音(聖観音・千手・馬頭・十一面・如意輪ほか)から名づけられたと伝えられている。” 

天神蔵ギャラリー「梅の会」より②(8月12日)

鈴木まさ子さんの書を通じて敗戦前の日本の国柄の一端に思いを馳せることが出来たが、その観点よりもうひとつ特筆すべき展示があった。それは、中村会長がワープロで清書され、中村淑専務が校正し出来上がった「思い出の記」という私家版の冊子(A5版、50余ページ)である。著者は中村会長のお祖母さんの出である引佐郡三ヶ日町の山田家のともさん(明治32年-平成9年)である。第一章の「一年間の行事」はいわゆる歳時記であるが、一月から十二月までの行事、生活風習が月次に、また日付入りで細密に記されている。
一月 正月元旦 みんなねむさを忘れて若水汲を誰が早いか競争で起きる。
二月七日 七草粥 朝食に神々様へお祭りし終わってから家族一同戴く。
三月末は学校も休みで汐干狩に新居弁天へ…大人も子供も仲良しとなって汐干狩は楽しい。
四月十六日は伊勢講で…一同が集まるとお清よめして皇太神宮の掛軸へ向かってお拝みをしてお膳に着く。
五月 農作業が多忙になる。天気良ければ麦刈り。籾撒きが始まる。
六月 田植えが始まる。愛宕山の東に段々の田が有るので日曜日田植えに連れていって貰う。
日本が年間を通じてお祭りをベースにして諸々の活動が展開されていた社会であったことがわかる。精確な記述ぶりに驚きを感じた。当時の空気が生き生きとよく伝わってくるのである。私も浜松在住歴24年、ともさんが生まれた引佐郡三ケ日町都筑を始め、記載されている地名が分かるので親近感も沸くのである。敗戦によってアメリカ文化が大量に流入する前の日本は、自然との一体感を基調として神仏をごく身近なものとして生きていた社会であった。来年は明治天皇が崩御されてから百年の年にあたることを今日袋井の可睡斎で知ったのであるが、当時のことも記されている。”天皇陛下の御重態を聞き心配に成り…(店の)若者達を誘って近くの氏神様へ御祈願祈願に行く。七月三十日今上陛下は遂に
崩御された…乃木大将夫妻は殉死された。心の動揺はいつまでも落ち着かない。” そして、もうすぐ大東亜戦争敗戦の日であるが、”昭和二十年八月十五日昼ニュースで終戦の詔勅が降った。突然の事残念で泣けて泣けてたまらない。”
と記されている。日本人として、しっかりとした心で生きたともさんは、叔母のかくさんの嫁ぎ先である浜松酒造の明治蔵が天神蔵として生まれ変わろうとするその矢先に98歳の生涯を閉じられたのである。山田ともさんの記述を通じて明治・大正・敗戦前の昭和の日本、そしてその遥かかなた昔の日本・「美の国ニッポン」へと通じる小さな道を見つけたような気がするのである。
58/91ページ 全部で453件中 286-290件を表示