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台湾からの感謝広告(令和3年6月13日)

産経新聞6月13日、P7の全面広告

日本から武漢ウイルス対応ワクチンが無償提供されたことへの感謝広告が2ページに亘って掲載された。以下、引用します。
~台湾が、新型コロナウイルスワクチンの獲得に極めて厳しい困難に直面していたとき、日本政府は迅速に救いの手を差し伸べ、124万回分のワクチンを無償で提供してくれました。我々は、日本政府及び国民の皆様の心意気と速やかな対応に、心より感謝申し上げます。この恩義は、永遠に我々の記憶に残るでしょう。台湾と日本は近くて古い友人です。一日も早く皆様と再会できることを願っています。 台湾人有志一同 ~
台湾政府からでないのが気になる所ではあるが、かつて日本の統治下にあった台湾との強い靭帯を感じた次第である。今回の我が国政府のアクションは、東日本大震災の時に台湾が数百億円の義援金を送ってくれたことに対する返礼の印であったろう。
ちなみに、このたびの台湾の新聞広告の基調色は桜色で、これは現下静岡県知事選を戦っておられる岩井茂樹候補のテーマ色でもある。和と友愛の絆による共同社会を象徴する日本の国花の色であり、芯の強さをも秘めている。
報徳仕法の実践家 岡田良一郎(令和3年6月12日)

岡田良一郎(1839-1915)

遠州地方で最初に出来た報徳社は、浜松インター近くの下石田報徳社で、1847年の創設である。その翌年に倉真報徳社が岡田佐平治によって作られた。岡田は嘉永6年(1853年)に直接に二宮金治郎に教えを乞いに遠路日光桜町まで旅をした。そしてその翌年に長男の良一郎を二宮尊徳(たかのり)のもとに入門させた。良一郎15才の時である。
2年後に尊徳翁が他界したが、さらに2年その地に留まり報徳仕法を学んだ。明治8年(1875年)に佐平治が社長となって上部組織としての遠江國報徳社が結成された。場所は、浜松の玄忠寺という浄土宗のお寺である。父・佐平治が2年後に病没後はその二代目社長となる。以下、「輝く静岡の先人」(静岡県発行)より~
明治10年(1877) 自宅に私塾北学舎をを設立する
明治11年(1878)    掛川農学社を設立する
明治12年(1879)    資産金貸付所掛川分社(現・掛川信用金庫)を設立
明治13年(1880)    静岡県立掛川中学校(現・掛川西高等学校)の初代校長に就任する
明治44年(1911)    遠江報徳社を大日本報徳社に改称し、全国の報徳社の上部組織とする
大正  4年(1915)    死去






「輝く静岡の先人展」(令和3年6月11日)

浜松会場(なゆた浜北市民ギャラリー)での会期最終日、スタッフの皆さんとの記念写真

 いまから11年前であるが、静岡県主催の「輝く静岡の先人パネル展」の運営を委託されたことがある。その前年に作成された冊子「輝く静岡の先人」を基にパネル(A2サイズ)54枚で県内を巡回展示するという構想であった。開催地、会場の選定、会期、会場スタッフのリクルート、会場設営など県の文化政策課のチェックを受けながら進めて行った。会場は、沼津(アゴラ静銀ギャラリー)→静岡(静岡市民ギャラリー:旧市役所内)→浜松(なゆた浜北市民ギャラリー)→森町(小國神社研修室)の4ヶ所であった。
この冊子の中で紹介されている先は54名。静岡の礎を築いた方々というよりも、同時に近代日本の礎を築かれた各界の錚々たる面々である。偉人ではなく先人といい、また軍人が排除されている点が気になった。スタートの沼津では、会場がビルの8階だったこともあり入場者が少なかった。しかし静岡会場辺りからちょうどボレロのようにクレッシェンドしてゆき、最後の小國神社ではピークに達した。反響も良かった。先人縁の方も会場に見えたりもした。
  各会場8名の監視係を短期雇用し、会場の設営、会期中の監視係の仕事、会場の撤収までやっていただいた。朝礼と終礼を毎日やり緊張感が保てるようにした。





画狂老人「北斎」(令和3年6月9日)

葛飾北斎 富嶽三十六景のうち「神奈川沖浪裏」

 東宝シネマ浜北で映画「HOKUSAI」を観た。最晩年の「富士越の龍」が出て来なかったのが残念であったが、絵師としての北斎の画業の営みが良く表現されていたと思う。
北斎(1760-1848)は生涯をかけて旅をした。引っ越しの回数も90回以上。古希を迎えた頃脳卒中で倒れた後も歩くことを止めなかった。あの有名な富嶽三十六景を描いたのが70才になった頃で、その後も遠く離れた(60里)信州の小布施まで歩いた。西洋の同時代人である音楽家モーツアルト(1756-1791)もその人生は旅と共にあった。しかしそれは馬車での旅だった。北斎は歩いたのである。杖をつき大地の上で足を動かしたのである。常に若々しく、そして瑞々しくあろうという神道の常若(とこわか)の考えを体現した人生であった。
写生すること、それが絵を描くことの基本である。目に見える対象を忠実に写すこと。その作業を続けることによって画家は自然界の命の営みを司る摂理を感得する。近代俳句の道を切り拓いた正岡子規(1864-1895)がそんなことを記していた。映画の中で、若い頃の北斎は歌麿から「あんたが描く女には色気がネエ」と批判される。形だけでなく描く対象の[いのち](官能性)をも写すことが作品の魅力を高めることを学んだ。そして写楽からは[心の眼]に見えたものを描くことを学んだ。図案性、デフォルメ、抽象化とでもいったらいいだろうか?



バッハの音楽(令和3年6月8日)

ライプツィヒ(ドイツ)の聖トーマス教会前のJ.S.バッハ像

 クラシック音楽を聴き始めたのは中学校の音楽の時間だった。NHKのラジオ番組「クラシック音楽入門」も聴いた。雑音がうるさい真空管ラジオだったが、基礎英語という番組を毎日聞くためということでトランジスターラジオに買い替えてくれた。母が農閑期に工事現場の仕事をしてお金を貯めてくれたのだった。ナショナルというブランドで松下電器の製品だった。そのラジオでNHKのクラシック音楽の番組を全て聞いていた。基礎英語も中学の3年間毎日欠かさず聞き、英語の成績は優だった。大木正興とか門馬直美、藁科雅美、そして諸井誠といった評論家や作曲家の解説に聞き入った。戦争未亡人の祖母(明治38年-昭和58年)が仲人をしていただいた謝礼で買ってくれたソニーのテープレコーダーですべての音楽番組を録音、繰り返し聞いた。
   初めて買ったレコードは、J.S.バッハ(1685-1750)の「組曲第2番」で、EP盤だった。演奏は、アントニオ・ヤニグロ指揮 ザグレブ室内管弦樂団、フルートはジャン・ピエール・ランパルだった。東京オリンピックの年だった。
後日談であるが、藁科雅美先生には、日本楽器に入社後渋谷店で企画したレコードコンサートの解説をお願いすることになる。確かテーマがブラームスの時だった。

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