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ブログ

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Led Zeppelin(1月9日②)

ベルリン上空を飛ぶZeppelin号、グループ名の由来?

今日1月9日は、イギリスのロックグループ Led Zeppelin(1968-1980)のベースギタリストジミー・ページの誕生日である。よく覚えているものだが、それはクラシックしか聞いていなかった私にZeppelinの音楽を紹介してくれた大学時代の親友も同じ誕生日だったからだ。ヤマハの駐在員としてドイツに赴任したのが昭和53年(1978年)、日本楽器入社後4年目の年だった。入社同期の高橋源樹も同じ頃ドイツに赴任しており、彼は大学時代にバンドもやっていた超ロック好きな奴だったので、1979年にロンドン郊外のネブワースパークで開催されたZeppelinの最後のコンサートを一緒に聴きにいった。Zeppelinの大ファンの家内と3人でハンブルクからロンドンまで飛んだ。前座が長く、Zeppelinが舞台に現れたのはあたりが暗くなりかけた夕方6時過ぎだった。会場は広い公園なので、舞台上に大型スクリーンが設けられていた。PAの音響も低音を中心に迫力充分だった。"Stairway to Heaven"や”カシミール”、”移民の歌”など、real timeでZeppelinの魅力を堪能出来たのである。ロバート・プラントのボーカルも高域の伸びと透明感が美しく素晴らしかった。ゆるぎの無い厚みのある音作りと、どことなく”さすらい人”の哀感を感じさせるところがZeppelinの魅力だろうか?ドラムとキーボードを伴奏として、ボーカルとベースギターとが共に”ハレ”を競っているのだ。
http://www.ledzeppelin.com/

「旧暦はくらしの羅針盤」(1月9日)

今日1月9日は、旧暦(太陰太陽暦)ではまだ12月6日である。赤穂浪士の吉良邸への討ち入りが12月14日であったから、彼らはまだ最後の準備段取りに余念がなかった日々だったろう。雪もこれから降り積もる。元禄15年(1703年)、当時は自然との一体感が強く、天候の予測なども専門家でなくてもそれほど特別なことでもなかったのではないか。50名に近い人数が揃って移動すれば夜半のことゆえ足音も響く。雪の日であればそれは緩和される。12月という月を選んだのもそういうところも勘案されたのではと推測する。小林弦彦著「旧暦はくらしの羅針盤」(NHK出版)によると、14日という日は亡き主君・浅野内匠頭の月命日で、満月に近く月明かりを照明として利用できた、という点を上げている。この本では、旧暦で季節感を取り戻そう、と呼びかけ、明治5年(1872年)当時の新政府が新暦への改暦を断行したことによる幣害の是正が必要だと訴えている。また、アパレルなど季節感と密接に関係する業種にはこの旧暦の知識が商売繁盛に繋がるという。それ以外の業種でも、旧暦を通じて季節感の重視(=自然との一体感涵養)を通じて目に見えない力を取り入れられ、発想力の活性化、創造性のアップなど、業績向上にきっと役立つものと思われる。

茶の心(1月8日)

鈴松庵:鈴鹿の”鈴”と松下幸之助翁の”松”をもって名付けられた。

亀山市(三重県)に天孫降臨族の道先案内をした猿田彦命を主祭神とする伊勢国一宮・椿大神社が鎮座している。日本武尊ゆかりの加佐登神社にお参りして後浜松へ帰るみちすがら自然に誘導されるようなかたちで訪れたことがある。手水舎で手を洗ってからと思いつつ、すぐ近くの売店に立ち寄った。その直後、杉の大木がその手水舎の屋根に倒れてきたのである。あの間合いは何だったのだろう。参拝後、庭園に囲まれた茶室に入った。聞けば、松下幸之助翁が、日本の心をこよなく愛する情から、茶道の発展を祈念して椿大神社に寄進されたものということであった。神道を経営の精神的バックボーンにし、二宮尊徳の報徳思想を基軸とした松下幸之助翁の社会への還元である。鈴松庵という名称である。

一月七日(1月7日)

石川周著「平成へのパラダイムシフト」(平成元年10月20日発行)

今日は昭和天皇のご命日である。あの日から22年が経過した。一般の葬儀に相当する政府の儀式「大葬の礼」がとりおこなわれたのは平成元年2月24日であった。皇室の儀式である「大葬の義」「れんそうの儀」「葬場殿の儀」はそれに先立って切り離された形で行われた。竹下内閣が一部の政教分離を唱えるグループに気を遣ったのであった。昭和28年大蔵省入省、元国土庁事務次官の石川周(いたる)氏はこの儀式に招かれ参加したときの様子を次のように書き記している。”式の始まる前、10時過ぎに礼砲が轟き始めた。21発であったように思う。腹の底に響く、鮮烈な緊張感をもたらすような、迫力充分の響きであった。ざわついていた式場内が居住まいをただし、静まり返った。礼砲が終わった時、お車(じゅ車)が式場に到着された。しばらくして、徒歩の列が粛々と始まり、私どもの前を過ぎていった。旗、楯、鉾、大真榊、棺、ひちりきの列の後に、神官、侍従長、藤森宮内庁長官など、そして葱華れん、つまり昭和天皇の柩の神輿が続き、その後に明仁天皇陛下、美智子皇后陛下、そのあとに皇太子はじめ皇族の皆様方が続く。この徒歩列を守るように、きらびやかな正装の皇宮儀杖兵がこれに加わる。雨である。天皇も、皇后も、宮内庁長官も、傘をさされての徒歩列である。これこそ、まさに粛々そのものというべき荘厳な徒歩列である。なかでも圧巻は葱華れん(そうかれん)であった。一列十二人程の四列の若人が、たったったったっと小刻みに駆け足のような小気味好いそのくせ厳しさを迫るリズムで神輿を肩に小砂利を踏んでいく。小砂利を踏む爽やかな、そして神秘、荘厳なその響きは、人をして思わず頭を下げしめるものであった。天皇の御霊がいま目の前を過ぎていったのである。まさに、この時のために今日ここに参列させていただいたのだ、そんな思いのする一瞬であった。” あの儀式には11,000人が参列したそうであるが、その中で克明に、つぶさに様子と場の雰囲気を綴ったのは数少ないのではなかろうか。石川氏は退官後、日頃の講演録・エッセー・インタビューなどをまとめて毎年本として発行しているが、上記の文章はその2冊目となる「平成へのパラダイムシフト」(B5判、400頁、私家版)と題した著書に収められている。知人・友人などごく少数の人に配っているもので、家内が石川氏の姪ということで毎年送っていただいている。身内が言うのもなんであるが、教養の厚みを感じさせる名文家である。
 http://www.youtube.com/watch?v=G8D15iezQQU&feature=related

巨眼の人・山岡鉄舟(1月6日)

江戸城無血開城の実質上の功労者は、勝海舟の陰に隠れてはいるが(*)、山岡鉄舟(天保7年/1836年-明治21年/1888年)であるという。勝海舟の命を受け西郷隆盛との交渉に向かおうとした鉄舟は金銭的には困窮しており、刀も持ってなかった。後の初代静岡県知事を務めた関口隆吉から大小を借りて駿府へと旅立ったという。道中官軍の警備の中を「朝敵徳川慶喜の家臣・山岡鉄太郎、まかり通る!」と大声張り上げながら進んでいったという。何という剛気...。禅、書そして剣の道を極めた鉄舟ならではの豪胆さであろう。(*)親日的日本人が作った”日本人の歴史教科書”(自由社刊)にでさえ、勝海舟の名はあっても、山岡鉄舟の名は出て来ない。駿府城至近の場所(現在の静岡市伝馬町)で西郷隆盛と山岡鉄舟は会談した。慶応四年三月、桜の咲く頃だった。当時は園芸種・染井吉野はまだ世になかったので、桜が城下町にあったかどうかは定かでない。維新後、静岡県大参事になった鉄舟は県内に数多くの足跡を残している。清水次郎長を感化し、伊豆長八に影響を与え、金原明善とも交流があった。寺社や商家に墨蹟も遺している。旧清水市にある鉄舟寺は戦国時代は今の久能山にあり、久能寺と称していたが、武田家が城を築いた後は今の場所に移された。幕末に到っては廃寺同然に荒れ果てていたのを、鉄舟が全国から募金を集め見事再興したのである。ゆえに、久能寺改め鉄舟寺となった。ちなみに、東海大学は最初この鉄舟寺で授業をしていたとのこと、同大学二期卒業生の義父(航空物理学専攻)から聞いたことがある。

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