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ブログ

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エーゲ海(令和3年7月28日)

ミコノス島

1981年の夏休みは、前半をギリシャ旅行、後半をバイロイト音楽祭で過ごした。今から思うととても贅沢な組み合わせだった。丁度40年前の事である。まだ30才だった。ハンブルクからフランクフルトまで約500Kmを車で移動。そこから空路アテネへ。計7泊のうち3泊4日を地中海クルージングに充てた。City of Rhodosという客船でエーゲ海の島々を訪ねた。空も海も青く美しかった。ロードス島→ティラ・サントリー二→ミコノス島→クレタ島を巡った。歴史の宝庫である。船内泊は楽しかった。朝夕の食事は船内で、昼食は訪れた島で。夕食の後はアトラクションの数々。いろんな国々の人に出会った。中近東に駐在している日本人家族やヴィーンからみえているご家族と仲良くなった。アトラクションの司会の方はきれいな女性で一度に6か国語を立て板に水のように喋った。日本語はなかったが。エーゲ海はエメラルド色に澄んでいた。
クルージングの前後2泊づつはアテネ市内及び近郊の観光を楽しんだ。日差しは強かったが、パルテノン神殿のふもとのアゴラの中はとても涼しかった。空気は乾燥していた。郊外に足を延ばしスニオン岬で風に吹かれた。海風は強かった。ポセイドン神殿の下の海は浅瀬でしばし泳ぎ戯れた。三島由紀夫が賞した「馭者像」のあるデルフィ博物館は閉館しており入館出来なかったのは残念だった。アテネから空路フランクフルトまで戻り、車でバイロイトに向かった。
バイロイト音楽祭②(令和3年7月27日)

バイロイト祝祭劇場外観

Bayreuther Festspieleが原語であるから、本当は「バイロイト祝賀公演」と訳すべきだろう。だが、音楽祭と言い慣わしているのが現状である。Salzburger Festspieleもそうである。直訳よりもより丸みのある表現で日本人の知恵がしのばれる。
オペラは18世紀においては、イタリア語の台本が中心だった。モーツアルト(1756-1791)の最後のオペラ「魔笛」(Zauberfloete)辺りからドイツ語になっている。ベートーヴェン(1770-1827)の「フィデリオ」やヴェーバーの「魔弾の射手」(Freishutz)などもそうである。ドイツ人の民族精神の勃興が背景にあるのであろう。それらに続くヴァーグナーはさらに推し進めて楽劇(Musikdrama)なるものを創出した。民族文化に纏わる神話や伝承に題材を求め、壮大な規模の作品に仕立て上げた。魂の救済など宗教にもそのモチーフを求めた。「二―ベルンクの指輪」四部作の理想的な上演の場として、というのがそもそものバイロイト祝祭劇場建設の発端であった。
バイロイト音楽祭(令和3年7月26日)

バイロイト祝祭劇場内部

ドイツの作曲家リヒャルト・ヴァーグナー(1813-1883)はライプツィッヒで生まれ、ヴェニスで最期の時を迎えた。バイエルン王ルードヴィッヒ二世の庇護を受けて、自身の作品上演専用の劇場をバイロイト(南ドイツ)に得た。その建物は華美なものではなく、どちらかというと簡素であった。入口ロビーにしても、装飾的なものは一切無く、無垢の木がむき出しの状態だった。劇場が社交の場から作品主体の場・空間へと進化を遂げたのだった。内部座席は固い木製の椅子がギリシャの円形劇場のように並べられた。理想的な音響効果を得るために、現代においても空調は備えられていない。上演が始まると各入口のドアは施錠される。バイロイト音楽祭の初日は7月26日である。暑い。劇場の中には正装の紳士淑女が暑さと高湿度を耐え忍んでヴァーグナーの作品上演に神経を捧げて居るのだ。私も1982年にそれを体験した。心地よい音響世界に浸りながらも、サウナに居るようだった。但し、幕間には外に出れて焼きソーセージや生ビール、ワインを楽しめた。
マーラー「大地の歌」より『別れ』(令和3年7月25日)

キャスリーン・フェリーアとブルーノ・ヴァルター

マーラーの9曲目の交響曲である「大地の歌」には番号がふられていない。ただ「大地の歌」(Das Lied von der Erde)である。本来であれば交響曲9番であったが、べ――トーヴェンが「第九」を書いた後亡くなっているため、この番号を避けたと言われている。
李白や杜甫と言った支那の詩人の作品を集めた「支那の笛」(Die Chinesische Floete)から6点を選び、それらに曲を付けたものである。テノールとアルトが交互に歌い、最終楽章は李白の「別れ」(Der Abschied)によるもので、アルト歌手が歌っている。
マーラーの弟子であったブルーノ・ヴァルターによって1911年、マーラーの死後ミュンヘンで初演された。ヴァルターは1938年にアメリカに亡命したが、その14年後にヴィーンに戻りこの「大地の歌」をレコーディングしている。オケはヴィーン・フィルで最終楽章の「別れ」をイギリス出身のアルト歌手キャスリーン・フェリーアが歌っており、古今不滅の名盤と言われている。
https://www.youtube.com/watch?v=ojRRwbNC2hs
愛する大地は 
春の訪れとともに花々が咲き乱れ 
樹々が芽吹き新しい命がほとばしる
永遠に、永遠に、永遠に...

消え入るように、まさに永遠の命を切願するかのように歌声が消えてゆく...。1952年の録音であるが、その翌年にキャスリーンは42才に満たないまま生涯を閉じた。また、この「大地の歌」のあと「交響曲第9番」を書いたマーラーは1911年5月、51才の誕生日を目前にして、麗しの5月にこの世を去るのである。

マーラー「亡き子を偲ぶ歌」(令和3年7月24日)

マーラー、1907年

作曲家グスタフ・マーラー(1860-1911)は晩婚で、42歳の時20才くらいのウイーン社交界の華アルマ・シンドラーと結婚した。生まれた長女には母親と同じマリアと名付け溺愛した。しかし、1907年その子は5才になる前に病死してしまった。その時の哀しみを音楽で綴ったかのような歌曲「亡き子を偲ぶ歌」は1901年から1904年にかけて書かれている。Kindertotenlieder(死せる子らに寄せる歌)というリュッケルトの詩に曲を付けたのだった。この年にはウイーン歌劇場の総監督の職も追われ、47才のマーラを不幸と逆境が襲った。
この詩を書いたフリードリッヒ・リュッケルト(1788-1866)は、45才の時2人の子を相次いで無くし、その実体験を詩に託したのであった。シューベルトやシューマンもその詩に曲を付けるほど美しいドイツ語で数々の詩を詠いあげた。時代的にはやはり生まれたばかりの子を失くした二宮金治郎(1787-1856)の同時代人である。マーラーによる歌曲「亡き子を偲ぶ歌」は以下の5曲から成る。
1.Nun will die Sonne so hell aufgehn;いま太陽がこんなに明るく昇ろうとしている
2.Nun sehe ich wohl,warum so dunkle Flammen; いま私には燃え盛る炎さえ暗く映るのだ
3.Wenn dein Muetterlein;おまえの可愛らしいお母さんが入って来る時に
4.Oft denke ich,sie sind nur ausgeganngen;子供らは外に出かけて行っただけなのでは?とよく思う
5.In diesem Wetter. こんな天候の時に   
カール・ベーム指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団,1963年
 https://www.youtube.com/watch?v=ZuPzPlx_ECE
 
 
 







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