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一期一会(令和3年10月14日)

池谷大三郎作「影向」(みょうごう)、気配のようなもので、音や光に神を感じ、光を影として

庭師で抽象美術作家の池谷大三郎氏が今月2日に亡くなった。肺癌を患っていらしたようだ。2か月ほど前に「満蒙開拓団」のことで電話をしたばかりであったが、その時はそんな気配を感じなかったのだが‘...。享年74才である。早すぎる死である。ダイザブロウをもじってダイゾーさんと呼ばれ親しまれていた。徳のある方だった。今日知人に伴われて弔問に伺い線香を手向けさしていただいた。奥様からある仏教団体の会報(平成26年7月発行)を見せていただいた。原稿用紙6枚弱の寄稿である。~夕刻から降り始めた雨が小やみになり、渇きを癒やすかのように草木がしっとりと蘇っている。数日前まで金木犀の香りを楽しみ.....これから天候が回復する予兆なのか、上空ではしきりに百舌鳥の雄叫びを上げる声が聞こえます。一瞬の風と共にひらひらと舞い落ちる病葉、欅の濡れ落ち葉が庭の土間の余白や木曾石の平石の上に彩り豊かに重ね合わされている。時々刻々と変化する自然の砂を眺めながら朝のお茶を飲む、至福のひとときです。~ ダイゾーさんのご自宅での描写である。今日お暇する時に眼を見張った「欅」は植えて38年の間に直径40センチ強にまで育っている。公道に面した前庭には今も活きている井戸がある。
平成27年の3月に小國神社で「椿アート展」を開催した時にダイゾーさんのご協力をいただいた。天龍の阿多古から切り出してきた青々とした3本を使ったオブジェで空間アート作品である。





鉄道記念日(令和3年10月14日)

明治5年の今日、新橋・横浜間に鉄道が開通しその試乗会が催された。明治天皇、有栖川宮親王殿下、三条実美(太政大臣)、井上勝(鉄道頭)、山尾庸三(工部省)、西郷隆盛(参議)、大隈重信(参議)、板垣退助(参議)、勝海州(海軍)、山形有有朋(陸軍)、江藤新平(司法卿)、渋沢栄一(大蔵省)、大久保一翁(東京府知事) 以上のお歴々が参加された由。うち、欧州の事情を視察しているのは、井上勝と山尾庸三、そして渋沢栄一の3人である。先の二人は、いわゆる長州五傑のメンバーで、既に1863年に上海経由でロンドンに渡っている。その様子は映画にもなっている。渋沢栄一は慶応3年(1867)にパリ万博を視察する徳川昭武の随員としてフランスを訪れた。万博終了後も欧州各地を視察している。
この頃は社会情勢が目まぐるしく動いている。明治6年には、西郷隆盛、板垣退助、江藤新平が征韓論を巡っての対立から政府に辞表を出し下野している。
日清戦争と子規(令和3年10月12日)

子規や漱石も乗った蒸気機関車と客車。20年前に「坊ちゃん列車」として運行が復活。

明治27年に始まった日清戦争は、翌28年の二月には清側の降伏という形で勝敗が決した。子規が従軍記者として清に向かったのは、同年の4月だった。戦闘はもう終わっているのに何しに行ったのであろう。司馬遼太郎は「坂の上の雲」の中で『子規の従軍は、結局はこどものあそびのようなものにおわった。』と書いている。一ケ月余の後にはもう帰国の途に就いている。しかも結核というやっかいな病に冒されていた。大連港から乗った佐渡国丸の甲板から血を吐いた。9日後に船は神戸港に着いた。この時詠んだ俳句を日記帳の余白にしるしたらしい。
須磨の灯か明石のともし時鳥
司馬氏によれば、時鳥ということばを入れたのは、血を吐く自分の姿をそれとなくえがいたのだという。下船した後すぐに神戸病院に運ばれ、そこには2か月いた。そして、喀血もおさまったので須磨の保養院で転地療養を一ヵ月。岡山、広島経由で松山に戻った。この時の移動が船だか鉄道だか、司馬氏はその辺り無頓着である。明治22年に東海道線(東京⇔大阪)は開通してるので、恐らく大阪以西も鉄道は開通していただろう。
松山に戻ったといっても、正岡家の屋敷は人手に渡っていたため、母親の実家に身を寄せた。大学時代の友人・夏目漱石が英語教師として松山中学(現・松山東高校、私の母校)に赴任していた。その漱石の下宿を愚陀仏庵と名付けてそこに転がり込んで句会を開いたりした。明治28年10月19日、子規は松山を発って東京に向かった。大阪からは鉄道の旅であったろう。浜松にも立ち寄っている。そして詠んだ。
馬通る三方ヶ原や時鳥
浜松市中区の天林寺山門近くにその句碑が建っている。ふるさと松山に想いを馳せるよすがとなっている。



昨日新政権が発足し、新官房長官に就任した松野氏が記者会見を開き、質問に答えた。北海道新聞の吉田記者が、アイヌ政策の推進姿勢について新政府の見解をただした。松野官房長官の回答は以下の通リであった。仰天する内容である。
~アイヌの人々が、民族としての名誉と尊厳を保持し、これを次世代に継承していくことは多様な価値観が共生し、活力ある共生社会を実現するために重要なことであると認識しております。あの、私はアイヌ政策推進本部の本部長であります。アイヌの方々が誇りを持って尊重される社会の実現に向けてしっかりと取り組んでいきたいと考えております。ま、政府としては、アイヌ政策推進法に基きアイヌ文化の復興、創造などの拠点であるウポポイの運営、アイヌ政策推進法交付金の活用などさなざまな政策ツールを総動員をしてアイヌの皆様に寄り添ってアイヌ政策の推進に全力で取り組んでいきたいと考えております。私としましては、ウポポイを出来るだけ早い時期に視察させていただきたいと考えております。~
◇アイヌ人の起源については、下記の竹田恒泰先生の動画がとても参考になります。約18分。
https://www.youtube.com/watch?v=msG7ydm9BIU
三島の富士(令和3年9月26日)

鳥居禮作「三島の富士」(150x300cm,平成22年)

函南町での講演会に参加するため新東名を走った。浜松からゆくと、晴れていれば新清水インターあたりで雄大な富士の姿が拝めるのであるが、今日はあいにくの雨模様。雲で覆われ、お隠れ状態であった。
◇曇らねば 誰が見てもよし 富士の山 生まれ姿で いく世経るとも(二宮尊徳)
◇晴れてよし 曇りてよし 富士の山 もとの姿は 変わらざりけり(勝海州)
講演会場の月光天文台への道を昇る前に三嶋大社に参拝。久しぶりである。ここの宝物館の横にギャラリーがあり、以前日本画家の鳥居禮展(平成21年)とキルトアートの徳嵩よし江展(平成25年)を開催したことがある。社務所ロビーには徳嵩先生の奉納作品「呂の風」が今も飾られており、また客殿広間には鳥居先生の「桜図」と「三島富士」(写真)の大作がある。久しぶりに鳥居作品に対面し、故矢田部宮司様より制作のご注文をいただいた時のこと、完成後に作品をお納めした時の事など、11年前当時のことを懐かしく思い出した。

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